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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー3枚のペチコートの共謀・フリードリヒ大王③

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フリードリヒ2世

 フリードリヒ2世は46年に及ぶ統治のほぼ全期間を、3人の女性に対する闘いに費やした。

 フリードリヒがプロイセンの王冠をかぶってからまだ半年とたたない1740年10月、彼はオーストリアのカール6世死去の報せを受け取った。まもなく、彼はヴォルテールに手紙でこう告げた。「皇帝が死にました。これは私の平和の構想を覆します。(来年)6月には、女優やバレーや芝居の代わりに鉄砲、兵隊、塹壕があるでしょう。それゆえ(劇団を招く)契約を破棄せねばなりません。」

 見通しは確実に戦争らしい。だがいったい、それはなぜ起こらなければならないのか?

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マリア=テレジア

 ハプスブルク家の後継ぎは23歳の美しいマリア=テレジアだった。カール6世は、自分にもう男の世継ぎが望めぬと知ってから、この長女に中部ヨーロッパに散在する広大な領土を相続させるため、じつに涙ぐましい努力をはらった。このため、1724年、領土の永久不分割と男子相続者のない場合に女子にも相続を許すことを宣言する「国事詔書」が発表された。カールはこれを領内各地の貴族会議に承認させたばかりか、イギリス、フランス、スペインなどの列強や、ドイツの諸侯たちにも確認を求めた。というのは、先代のヨーゼフ1世(カールの兄)の娘をそれぞれ妻にしているバイエルンとザクセンの君主が、マリア=テレジアの相続に意義を唱えていたからである。カール6世は幾多の貴重な犠牲を払って列国の承認を取りつけ、横槍を押さえるのに成功した。

 事実、彼が死んでマリア=テレジアの即位が現実の問題となった時、約束に反し彼女の相続に公然と意義を唱えたのはバイエルン選帝侯ただ一人であった。マリア=テレジアが玉座に登る道は坦々として、あと何の障害も横たわっていないはずであった。

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 ところが、この年12月、まったく突然、プロイセン軍がオーストリア領シュレジエン(シレジア)へ侵入を始めた。それと同時に、フリードリヒ2世はマリア=テレジアに通告を送った。それによれば、プロイセンは彼女の王位継承を認め、さらに彼女の夫トスカナ大公フランツの神聖ローマ皇帝就任を助け、200万ターラーを供与しよう。そのかわり、鉱山資源に恵まれ、工業の発達したシュレジエンをよこせ、というのである。

 彼が主張したプロイセンのシュレジエンに対する歴史的権利なるものは、まったく取るに足らぬものだった。口実は何でも良かった。彼にとって大切なのは。人口250万の貧しい国に人口100万の豊かな新領土を加えることであった。

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オーストリア継承戦争

 マリア=テレジアはフリードリヒの通告を受け取った時、激怒した。「断じて、断じて寸土の領地も譲りませぬ。」と決意を明らかにし、ただちに挑戦に応じた。が、翌1741年4月、オーストリア軍はモルヴィッツでプロイセン軍に敗北した。かねてハプスブルク家を敵とするフランスをはじめスペイン、バイエルン、ザクセンらはプロイセンに味方し、オーストリアに対しては、フランスと対立していたイギリスが支援したが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はなかった。

 窮地に立ったマリア=テレジアは乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いてハンガリーに赴き、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに抵抗を呼びかけた。その後困難な闘いを切り抜けたマリア=テレジアは、シュレジエンは失ったものの他の家督の相続は認められた。1748年のアーヘン条約で8年におよんだオーストリア継承戦争は終わった。

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ポンパドゥール夫人

 戦後、オーストリアでは「シュレジエンの損失を忘れるな!」が合い言葉となった。マリア=テレジアはわけても、敗戦の屈辱を忘れなかった。フリードリヒを不倶戴天の敵とみなし、シュレジエンを奪回するばかりか、プロイセンを解体するところまでゆかなくてはハプスブルク家に平和は決して訪れぬと信じていた。

 彼女は国内改革を図るとともに、外交手腕を用い、憎むべきプロイセンを国際的孤立へ追い込もうと努力した。彼女は宰相カウニッツ伯の意見を容れ、まず宿敵フランスと結ぶことを考えた。これは予想外に困難な課題であったが、仏王ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の後ろ盾もあって、両国は1756年に防衛条約を締結した。長年にわたる宿敵ハプスブルク家とブルボン家が提携したことはヨーロッパを驚かせ、「外交革命」と呼ばれた。

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女帝エリザヴェータ

 つづいて彼女はロシアの女帝エリザヴェータと同盟することにも成功し、3方からプロイセンを圧する体制をつくりあげた。ただ、イギリスは戦後しだいにプロイセン側へ傾き、フランスと位置を交替した。

 結局、フリードリヒ2世は彼に憎しみを持つ3人の女性に取り囲まれる形になったわけだが、これを「3枚のペチコートの共謀」と呼んだ。ちなみに、フリードリヒはマリア=テレジアを「教皇の魔女」、女帝エリザヴェータを「北方の山猫」と呼び、ポンパドゥール夫人(フランス)である。フリードリヒはポンパドゥール夫人は母親が魚売りの女だったという理由で、「マドモアゼル=ポアソン(魚)」と呼んで軽蔑しきっていたという。

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 フリードリヒは、仏墺関係の転換に驚き、かつ危機を乗り越えるには機先を制するにしかずと考え、1756年8月、6万7000の兵を率いて、ザクセンへ侵入した。以後、フリードリヒはオーストリア、ロシア、フランスの30万を敵として、英雄的な抗戦を続けなけらばならなくなった。

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七年戦争

 プロイセンの最大の危機は1758年から62年まで続いた。58年の夏、フリードリヒはオーデル河畔まで達したロシア軍を抑えはしたが、10月にはザクセンでオーストリア軍に敗れ、「常勝王」の偉名を辱めた。62年には、ベルリンはロシア軍に占領され、敗色が濃くなった。プロイセン王国は瓦解寸前、というところまで追い込まれたフリードリヒは自殺も考えた。

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ピョートル3世

 だが、ちょうどその時、連合国側に異変がおこった。ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、跡を継いだピョートル3世が、一方的にベルリンから引きあげたのである。その理由は、ピョートル3世のフリードリヒ崇拝、これである。プロイセンにとっては、まったく思いがけない僥倖であった。これが「ブランデンブルクの奇跡」であり、態勢を立て直したフリードリヒは、ついにシュレジエンを守りきったのである。

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69歳の時のフリードリヒ2世

 晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり、人を遠ざけるようになっていった。もともと優れない健康もさらに悪化し、心臓の発作や水腫、呼吸困難に悩まされ、一日の大部分を肘掛け椅子で過ごし、1786年8月17日、74歳の王は椅子に腰かけたまま老衰により崩御した。

 彼が死んだ時、プロイセンの国庫には父親から受け継いだ時の5倍以上、5100万ターラーの金が満ちていた。同様に国土もほとんど2倍に、人口は250万から650万に、軍隊は8万から20万に増えていた。この輝かしい治績のゆえに、彼は特に「大王」と呼ばれるようになり、プロイセン人の偶像となった。(おわり)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/10 05:29 】

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