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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー16人もの子供を産んだ女帝・マリア=テレジア

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マリア=テレジア

 マリア=テレジアは1717年5月13日に神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生した。彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア=テレジアと妹のマリア=アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。

 マリア=テレジアは若いころは健康で美しかった。今に残る若き日の彼女の肖像からもその美貌は伝わってくる。結婚適齢期になると、さまざまな縁談が出て、一時はプロイセンの王子フリードリヒとの話も進んだ。彼はマリア=テレジアより5歳上、本人は彼女との結婚に相当乗り気だったらしい。しかしある事情から縁談は破綻した。この二人は後には憎しみ合い激しく戦う間柄になる。

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フランツ1世

 実はマリア=テレジアは6歳の時にウィーンの宮廷で見初めた貴族の若者がいた。初恋の人はロートリンゲンから来たフランツで9歳年上だった。結局二人の恋が実り、1736年2月に結婚した。

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マリアとフランツ

 すぐに子どもが出来たが女の子ばかり、3人続き、1741年にようやく待望の男子ヨーゼフが生まれた。その後も、なんと彼女は56年までの20年間に16人の子供を産んだ。つまり妊娠していなかったことがなかったわけで、しかもその間に戦争などの難局が相次いだのだ。ハプスブルク家は多産の家系で有名だが、女王でありながらこれだけの多産なのは驚きだ。

 これだけ多くの子を産んだのには訳がある。父カール6世が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていたからだ。

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マリア=テレジアの娘たち

 16人の子供のうち、11人は娘である。4女マリア=クリスティーナ(愛称はミミ)を最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の息子アルベルト=カジミールとの恋愛結婚を許している。このためマリア=テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。
 
 一方で、身体に障害があり病弱であった次女マリア=アンナや反抗的なマリア=アマーリエの二人を厄介者呼ばわりして嫌った。

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オーストリア継承戦争

 1740年、父カール6世の死で23歳にしてハプスブルク家の家督を継いだが、プロイセンのフリードリヒ2世がこれに反対してオーストリア継承戦争が始まった。この戦争ではフランスの軍事介入でマリア=テレジアは絶体絶命の窮地に立たされた。彼女が最後に望みを託したのはハンガリーの貴族であった。ハンガリー貴族はオーストリアの支配から脱する好機と考え、反オーストリア蜂起を企てるのではないかと危惧されていたが、彼女はあえて逆の行動をとった。

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ヨーゼフ2世

 1741年9月、彼女は現在のブラチスラヴァで開会中のハンガリー議会に、乳飲み子を長男ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)をかかえて劇的に登場し、誇り高いハンガリー貴族に涙ながら支援を訴えた。それに感動した議員から「我らが女王、王冠、祖国に血と命を」の叫びが起こり、6万の出兵その他の支援を取り付けたのである。彼女もハンガリー国法の遵守、貴族の免税特権、行政的自治の保証などを約束した。

 わずか24歳の若妻マリア=テレジアが、乳飲み子ヨーゼフを抱いてハンガリー議会に乗り込んで演説したというのは伝説らしい。この時彼女がハンガリーに連れていったのは3歳の皇女マリア=アンナで、ヨーゼフはウィーンにおいてきた。ハンガリー滞在は議会を説得するのに時間がかかり、6月から9月に及んだが、その間何度かヨーゼフの様子を見にウィーンに戻っている。ヨーゼフを抱いていなかったとしても、美しく若い女王の訴えが、ハンガリー貴族と議会を動かしたことは事実だ。

 だが、その後3度にわたって繰り広げられた戦いは、結局プロイセンの勝利に終わった。マリア=テレジアのハプスブルク家相続は確保されたが、大きな収入源であるシュレジエン地方を失った。

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カウニッツ伯

 敗戦後、「シュレジエン泥棒」プロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジエンの奪回を目指したマリア=テレジアは国政改革に努め、10万8000人の常備軍を設けた。この問題で女帝の意を体して動いたのは、「当時のヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つ政治家」と評される宰相カウニッツであった。旧フランス大使でもあった彼は、プロイセンに対する報復戦争を見通して、新たに大同盟の樹立を画策しはじめた。

 カウニッツは女帝エリザヴェータのロシアと同盟した後に、思いもよらぬ外交に出た。ブルボン家のフランスと結ぼうというのである。16世紀末以来続いてきたブルボン家とハプスブルク家の敵対関係を知らぬ人はいない。それが放棄され、両国は同盟関係に入ったのである。1756年のこの「外交革命」が、新しい戦争の始まりとなった。

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マリ=アントワネット

 戦争はオーストリア、フランス、ロシアの大同盟の軍の優位のもとに進められた。1760年から翌年にはベルリンが占領された。もう一押しでフリードリヒ2世のプロイセンは壊滅するところであった。だが、エリザヴェータ女帝の死によりフリードリヒは思いがけず危機を逃れることになった。(詳細はフリードリヒ大王③をお読みください。)

 だが、ブルボン家との協力関係は、その後も続けられ、そして両家の婚姻政策によって強められた。1770年、マリア=テレジアの末娘マリ=アントワネットが14歳でフランスの王太子ルイ(後のルイ16世)のもとに嫁いだのである。

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マリア=テレジア

 厳密にはマリア=テレジアは女帝ではない。彼女はオーストリア大公(形式的には大公妃)であり、ハンガリー国王とベーメン国王を兼ねていた。その期間は1740年から1780年の40年にわたる長期間であったが、その前半の1740~65年は夫のフランツ1世、後半の1765~80年は息子のヨーゼフ2世がその共同統治者であった。

 彼女自身は女性であったので神聖ローマ皇帝にはなれず、夫のフランツ1世が皇帝となっている。フランツ1世の死後はヨーゼフ2世が皇帝となった。したがってマリア=テレジアは形式的には帝妃、そして帝母という立場に過ぎなかった。しかし、夫フランツは政治にあまり関心が無く、子のヨーゼフには政治をまかせきれないと考えていたので、実際に帝国を切り盛りしたのは彼女であった。つまり、実質的には女帝であったので、女帝と呼んでも間違いとは言えない。

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喪服を着たマリア=テレジア

 夫フランツ1世は快活な人だったが政治には関心はなく、それは妻にまかせ、夫としての仕事だけに専念した。 1765年8月18日、フランツは3男レオポルトの結婚祝いのために赴いたインスブルックで、ゴルドーニの喜劇とバレエを鑑賞して帰還した後の夕方、突如没した。

 マリア=テレジアは夫の死を深く悲しみ、シェーンブルン宮殿の一角に夫を偲ぶ真っ黒な漆塗りの部屋を設けたほか、夫が没した地インスブルックに設置された凱旋門にはフランツの死を悼むレリーフを据え付けさせた。また彼女は夫の死後、自身が没するまで喪服しか着用しなくなったという。

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マリア=テレジアの一家

 写真は、マリア=テレジアとその家族の肖像。右の座っているのがマリア=テレジア。左端が夫のフランツ1世。間に立つ赤い服の若い王子がヨーゼフ。このころの彼女はでっぷりと太っている。ウィーンの王宮には籠を人力で上げ下げするエレベーターがあったが、「伝説によると200キロの体重があったマリア=テレジアは、体の重みで綱が切れて落っこちた」そうだ。

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マリア=テレジアの崩御

 1780年11月中旬、マリア=テレジアは散歩の後に高熱を発し、約2週間後の11月29日、ヨーゼフ2世、ミミ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら崩御した。病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/17 05:30 】

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