FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー皇太子を殴り殺した皇帝・イヴァン4世

Ivan4-w-3_convert_20200608104113.jpg 
イヴァン4世

 1530年8月25日、イヴァン4世はモスクワ大公である父ヴァシーリー3世と母エレナ=グリンスカヤとの間に誕生した。なかなか後継に恵まれなかった大公にとっては待望の子だった。

 しかし、イヴァンは「呪われた子」と呼ばれることになる。それは、ヴァシーリー3世が長年連れ添った不妊の先妻を追放し、18歳のエレナを妻に迎えたからだ。正教会の猛反対を押し切ってエレナと結婚したことから、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。エレナは魔術によって懐妊したなどという噂も流れた。

 そして彼が3歳の時に父ヴァシーリー3世が、8歳の時には母エレナがこの世を去りました。わずか8歳の少年イヴァンは貴族たちの権力争いに巻き込まれ、その心に暗い影を落とします。父亡きあとは母エレナがイヴァンの摂政を行なっていましたが、彼女の死後は名門シューイスキー家とベーリスキー家が指導者争いをしていた。

 心細さと不安定さからか、イヴァンは成長するにつれ犬や猫を虐待死させたり、異教徒の旅芸人らと騒いで遊ぶようになる。この頃から彼の残虐性が芽生え始めた。


Ivan_grozny_frame_convert_20200608110229.jpg 
イヴァン3世

 1547年1月16日、それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、史上初めて「ツァーリ」として戴冠し、親政を開始した。ツァーリは「カエサル」のスラヴ語形で、皇帝を意味する。これは祖父のイヴァン3世が一時称したことがあるが、ツァーリとして戴冠式を行って正式な皇帝号としたのはイヴァン4世からである。国内では大貴族(ボヤール)の力を抑え、中央集権的な政治体制を作り上げ、農民の移動を厳しく取り締まる農奴制の強化などを徹底し、ツァーリズム政策を推し進めた。

4荳悶→繧ェ繝励Μ繝シ繝√ル繧ュ縺溘■_convert_20200608111734 
イヴァン4世とオプリーチニキ

 イヴァン4世はツァーリの絶対的権力を行使する手段としてオプリーチニナ(「別個に設けられた財産」の意味)という親衛隊を組織、貴族の子弟を皇帝に忠実な隊員オプリーチニキとして特権を与え、反対する大貴族をテロルによって弾圧した。イヴァン4世が行った政治テロは400件、あるいは1万件と言われる。

 秘密警察オプリーチニキは、頭から足のつま先まで黒づくめで、「反逆した者を一掃する」という意味で鞭の柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ、更に「ツァーリの敵にかみつく」という意から犬の頭を馬の首に下げていたそうで、多くの大貴族が血祭りにあげられた。

 大貴族はイヴァン4世をグロズヌイと呼んで恐れた。グロズヌイは「恐怖を覚えさせる」という意味であるが、日本では雷帝と訳している。ちなみに、グロズヌイはチェチェン共和国の首都名ともなっている。

03-fai-25882_convert_20200608114420.jpg 
町を襲撃するオプリーチニキ

 1570年にはノヴゴロド市をオプリーチニキに襲撃させ、市民3万人以上を殺害するということまでやっている。ノヴゴロド市がポーランド王と繋がっているのではないかと疑ったために起こった悲劇であったが、これらの恐怖政治を行った結果、経済が低迷。耕作地も放棄される事態に陥ってしまう。これを打開しようと、イヴァン4世は農奴制の強化を図ることになった。

image-8804a_convert_20200608134917.jpg  
最初の妻アナスタシア

 イヴァン4世は生涯に7人の妻を娶っている。最初の妻アナスタシアは3男3女の子をもうけたが、結婚14年目に急速に衰退し始め亡くなってしまう。イヴァン4世は大貴族によって毒殺されたと思い、疑わしい人物は片っ端から処刑してしまった。20世紀に入って死因調査が行われ、遺髪に大量の水銀が含まれていたことが判明したが、当時の化粧品には水銀が入っていたので、毒殺かどうかははっきりしない。また、3番目の妻マルファも結婚16日目に謎の死を遂げており、これも毒殺の可能性があり、大貴族に対する弾圧の仕返しだったことも考えられる。

detail1_54c2c2b6-c5ad-4ea4-84de-374f15a3ecb1_convert_20200204095404.jpg
エリザベス1世

 1567年、イヴァン4世はイングランドのエリザベス1世に婚姻を申し入れる手紙を書いている。この手紙は今でも大英博物館に保管されているそうだ。イヴァン4世はこの時点で2番目の妻マリヤと再婚しており、また例え離縁が成立しても、イングランドにとってエリザベス1世が結婚してまでも貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由がどこにもなく、プロポーズは失敗に終わった。

Yermak_convert_20200608143850.png 
イェルマーク

  領土面では、1552年にカザン=ハン国に遠征、城壁を大砲で砲撃して陥落させ、さらに1556年にはヴォルガ下流、カスピ海北岸のアストラハン=ハン国を征服した。これによって、ヴォルガ川流域からシベリア方面に進出する道が開けた。

 1582年にコサックの首長イェルマークは遠征隊を組織し、シベリア遠征を開始した。ウラル山脈を越えてオビ川流域などの狩猟民を降服させ、さらにシビル=ハン国を征服して、イヴァン4世に献上した。シベリアの地名はこのシビルに由来するが、これによってシベリアはモスクワ大公国の支配下に入り、ロシア人の毛皮商人がさらに東を目指して進出することになった。

150101-17_convert_20200608152752.jpg 
「イヴァン雷帝とその息子」イリヤ=レーピン

 イヴァン雷帝は一種の人格破壊者といった感じで人を殺した。宮廷では陰謀事件や外敵との通謀、ちょっとした不敬などの罪を着せられた廷臣や時には聖職者がその餌食になり、皇帝自らが棍棒を振り下ろしたり、残虐な処刑を皇帝親子が見て楽しんだりしていた。流血を見るのが何より好きだったのだ。そのおぞましい数々の凶行の仕上げとなったのが、1581年11月の皇太子イヴァンを打ち殺してしまった事件であった。

 皇太子イヴァンは背が高く、有能であったので父の雷帝もかわいがっていた。しかし、歳を取った雷帝の耳に、宮廷の中で皇太子に対する期待が高まっていることが聞こえてくると、雷帝は自分を退位させようという陰謀を疑うようになった。またスウェーデンとの戦争がうまく行かないことでも、つい先日、皇太子が父を罵ることがあった。そんなある日……

4荳悶€擾シ・convert_20200608152720 
息子の遺骸の傍らに座る雷帝

 事件のきっかけはきわめて些細なことで、懐妊中であった息子の嫁の身なりがだらしなかったというのである。その日、あいにく虫のいどころが悪かった雷帝は、癇癪玉を破裂させて嫁の頬を打ち、それが原因で父と息子との諍いになった。雷帝は狂気のような怒りの発作に我を忘れ、鉄鉤つきの棍棒をふりあげ、肩といわず頭といわず、めったやたらに息子を殴りつけた。

 イヴァンはこめかみを割られて横たわっている。雷帝はふと手を休め、血まみれの棍棒を持ったまま、虚脱したようにそこに立ちすくんだ。それから息子の体にとりついて、うつろな眼を宙にさ迷わせている鉛色のひげ面を接吻でおおい、深い傷口をつたって頭からどくどくと流れ出す血を止めようと、空しく試みた。雷帝は仰天し、絶望し、唸り声を上げた。「なんてことだ、息子を殺しちまった!息子を殺しちまった!」

 その後、雷帝は毎夜のようにうなされ、寝台から飛び起きては号泣し、めっきり老い込み、退位して修道院に入ることを考えながら、2年余りして世を去った。


↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/21 05:08 】

ヨーロッパ近世史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドーハンマーを振るう皇帝・ピョートル1世① | ホーム | 世界史のミラクルワールドー16人もの子供を産んだ女帝・マリア=テレジア >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |