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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーハンマーを振るう皇帝・ピョートル1世①

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ピョートル1世

 1672年5月30日、クレムリンの教会の鐘はロマノフ家2代目の皇帝アレクセイの妃が男児を出産したことを告げた。アレクセイは先妻との間に13人の子供をもうけたが、後継者たるべきフョードルとイヴァンはともに病身であった。「一流の」医者をかかえるツァーリ家とはいえ、当時赤子は、特に男の子は、なかなか丈夫に育たなかったのである。ピョートルと名づけられた新生児は、それに反して健康でたくましい子ではあったが、帝位継承の序列からはずれていた。

 アレクセイが1676年に亡くなった時、フョードルが順当に跡を継いだ。だが病身の彼は6年しかもたず、子供もなかった。次はイヴァンであったが、これは心身ともに健全ではなかった。この機会をとらえて攻勢に出たのがピョートルの母の出身であるナルィキシン一族であった。甘言で軍隊を動かし、総主教を味方につけて、10歳のピョートルを後継者の地位につけた。

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ソフィア

 もちろん正統なイヴァンを擁する一族も黙っていなかった。こうして宮廷内の権力抗争が始まった。その結果は、前代未聞の「2人のツァーリ」という奇妙な現象を生み出したが、古代に先例がある、ということで収められた。そして、イヴァンの実の姉ソフィアが摂政の地位に就いた。その後の7年間は、「2人のツァーリ」体制のもとで摂政ソフィアが寵臣ゴリツィンとともに実権を握ったのである。

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若きピョートルと遊戯連隊

 モスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村の館がピョートルと母の7年間の住まいであった。少年ピョートルは、ときおり宮廷儀礼にクレムリンに呼ばれるくらいで、ツァーリとしての正規の教育も受けず放任されていた。身体はますます大きく、心身ともにたくましさを増していた。ピョートルは身長2メートル13センチの大男であり、普通の人間と並ぶといつも首だけ高く、復活祭の挨拶をする際には背中が痛くなるほど身体を屈曲させなくてはならなかった。

 ピョートルは生来、身体を動かし、道具を作ったり操ったりするのが好きな子供だった。そんな彼を虜にしたのが、まず「戦争ごっこ」であった。遊びだけならば、誰しも子供の頃は夢中になった経験を持っている。だが、彼の遊びは徹底していた。ミニチュアの要塞をつくり、本物の鉄砲を用いて「軍事演習」をする、という本格的なものにまでなった。時には死傷者を出したこの演習に彼は将軍としてではなく、一兵卒として参加して現場を体験した。

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 ピョートルが長じるにつれ興味を抱いたもう一つのものは「航海」である。ロシアにも海はあるが、それはあまりに遠く、たいていのロシア人は海を見ることなど一生なかった。彼はプレオブラジェンスコエ村からほど遠くないところにあった「外国人村」に出入りして、オランダ人などと親しく交わった。西欧の人々がモスクワに持ち込んだ「文明」が彼を虜にするのに時間はかからなかった。ピョートルは湖に帆船を浮かべて、初めて「航海」を探検した。操縦技術や天体観測にも関心が向けられた。そしてオランダ語も学んだのである。

 1689年、ソフィアが失脚し、ピョートルが新たな統治者としてクレムリンに迎えられ、1694年に母親が死去すると親政を開始した。翌1695年はじめ、黒海への出口を求めてアゾフへ遠征が行われ、ピョートルも一砲兵下士官として従軍したが、アゾフ要塞包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられ失敗に終わった。

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アゾフの陥落

 このため、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設してわずか5か月でガレー船と閉塞船27隻、そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせた。これがロシア最初の海軍である。

 1696年に再度行われたアゾフ遠征はピョートル自らがガレー船に乗船して戦った。ロシア軍による水陸共同作戦によりアゾフは陥落し、ピョートルは海への出口を手に入れた。しかし、進出地点はまだ黒海内海のアゾフ海にとどまり、更なる進出にはオスマン帝国に再び勝利する必要性があったが、ロシア単独では不可能なためピョートルは軍事から外交政策に転換した。

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オランダで船大工とともに

 1697年、モスクワから総勢300人余りの大使節団が西欧諸国へ向けて出発した。この使節団にはピョートルは「ピョートル=ミハイロフ」という変名で、一随員として加わった。ロシアは、その後1年半以上にわたってツァーリ不在という変則的な事態をむかえたのである。しかも、モスクワの治安は決して安定していなかった。そうした危険を冒してまでピョートルを西欧へ駆り立てたものは何か。これは、つまるところロシアの後進性の自覚であり、西欧の先進的文明、とりわけ「海事」の習得にあった。

 まずプロイセン王国のケーニヒスベルクで砲術を習った。オランダにはいるとピョートルは単独行動をとり、アムステルダムにある東インド会社の造船所で一職工として働きハンマーをふるって造船技術を習得した。「モスクワのツァーリは、自分の手でドッグの人々と同じように一生懸命働いている」。こうして、「王様の船大工」「ハンマーを振るう王様」の評判ができあがった。それは決して一度きりの「政治家のパフォーマンス」ではなかった。4ヶ月間にわたって続けられたのである。さらに、博物館、病院、裁判所を見学し、ライデン大学では解剖学の講義を聴いた。

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造船所で所長から教わるピョートル

 更に造船学を学ぶためイギリスに渡り、ウィリアム3世に歓迎され、造船所で技師見習いとして働き、砲弾工場なども見学した。

 アムステルダム、ロンドンという、当時の海洋先進国の最も繁栄していた都市への訪問は、ピョートルに深い、生涯にわたって持続する影響を及ぼしたが、より直接的には大使節団は、約800人にのぼる各種の専門家・技術者を雇い、連れ帰った。それは料理人から海軍将校までさまざまな職種に及んでいる。奥は「二流以下の人々」であったが、ロシアの西欧化はかれらによって着実に進められたのである。

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ひげ狩りの風刺画

 ピョートルは外遊から帰国すると、その服装も西欧風に改めた。そして挨拶にきた貴族を捕まえては、そばに控えたこびとに羊毛用のハサミを持たせ、あごひげひげをちょん切ってしまった。ロシアの貴族は昔からあごひげを蓄えるのが習慣であったが、ピョートルは「新しいロシア」にはそぐわないと、貴族たちのあごひげを切ってしまったのである。

 あごひげには税金がかけられた。1705年の勅令では、あごひげの税額は身分によって異なった。貴族と官吏は60ルーブル、大商人は100ルーブル、一般商人は60ルーブル、家内奴隷は30ルーブル、農民は自分の村にいる時だけは無料だが、あごひげをつけて都市に出入りすれば、そのつど1ペーカずつとられた。

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ピョートルの抜いた歯 

 ピョートルは、みずからを優れた外科医、腕のよい歯科医であると自認しており、病にかかった側近は皇帝が手術道具を持って自分の前に現れることを怖れたという。抜歯の巧さはピョートルの最も自負するところで、その死後、小さい袋いっぱいに詰められた。サンクトペテルブルクのクンストカメラ(人文学博物館)では、皇帝が抜いた歯の“全コレクション”を見ることができる。そのなかの何本かは…なんと虫歯ではない。

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復元されたピョートルの建造した船

 西欧の技術を身につけたピョートルが一番好んだのは造船であった。彼は国務をほったらかしても、造船所へ行ってハンマーを振るうことをかかさず、1日のうちの2時間はペテルブルク造船所で過ごした。

 ピョートルは朝4時に起き、約30分部屋の中を歩き回る。それから秘書を呼んで仕事を命ずる。6時に朝食がすむと、外出する。馬か二輪馬車で、天気の良い時には歩いて行く。行く先は元老院か官庁、もしくは工場である。10時になると帰宅し、バターパンを肴にウォッカを1杯ひっかけて、2時間ほど眠る。昼食後、オランダ語の新聞を読み、必要な箇所を鉛筆でチェックしたり、ノートする。そして4時になると外出して、造船所へまわる。

 生まれつき膂力が強かったが、常に斧やハンマーを振るっていたために、銀の皿をくるくる巻いて管にできるほどの怪力の持ち主となったそうだ。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/24 05:26 】

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