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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー西欧への窓を開く・ピョートル1世②

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ピョートル1世

 ピョートル1世の生涯は、戦争に開けて戦争に暮れた。その35年間の治世にも、完全に平和であった期間はわずか13カ月しかなかった。「海への出口」を求めることが、ロシアの発展にとって不可欠の要請であり、ピョートルが造船術を学び、海軍の建設に狂奔したのも、実はそのためであった。

 はじめの頃ピョートルはその目を南方に向け、トルコの海であったアゾフ海、黒海への進出をめざして、アゾフ遠征を行った。しかし、まもなく彼は西へ転じ、バルト海の制海権を握るべくスウェーデンと戦う。これが有名な北方戦争である。

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カール12世

 スウェーデンという国は、当時人口300万人たらずであったが、不相応に大規模で近代的な軍隊を持った「軍事国家」であった。三十年戦争の戦勝国としてバルト海沿南岸にも広大な領土を手に入れ、バルト海を内海、湖としていた。当時のスウェーデンを、古代ローマの「地中海帝国」に類比させて「バルト海帝国」と呼ぶ。

 1697年、父王の死により弱冠14歳で即位したのがカール12世であった。甘く見たピョートルは1699年にデンマーク、ザクセンとの間に北方同盟を結成、カール12世が18歳となった1700年、その機に乗じてピョートルはスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲した。

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ナルヴァの戦い

 しかし、カール12世は銃撃戦の音を「これぞわが音楽」と言い、その生涯を通じて戦陣から戦陣を生きた信念の人であり、グスタフ=アドルフにも劣らない、史上希な豪傑であり戦略家であった。ただちにロシアの同盟国デンマークのコペンハーゲンに上陸した彼は、この国を同盟から離脱させた。さらに精鋭を従えてナルヴァへ急いだ。

 10月ともなれば、この地方はすでに厚い雲がたれこめた冬である。ピョートルのロシア軍は3万5000、カールのスウェーデン軍は8000。ロシア軍はその規模において大きく上回っていたにもかかわらず、十分な訓練を受けておらず、完膚なきまでに打ち破られ、その3分の1を失った。塹壕は死体で埋まり、ロシア軍はすべての大砲と、指揮官80名を失った。ピョートルは決戦の前夜に戦場を離れており、辛うじてピンチを逃れたが、アゾフ遠征でえた栄誉は一夜にして地に堕ちたのである。

 カール12世は翌年春、本国に1万の兵を要求し、7月ザクセンとロシアの連合軍を破った後、ポーランドに攻め入り、傀儡政権を樹立した。だが、ポーランドの「貴族共和国」にあって国王はもともとお飾りであった。貴族の一部は反スウェーデンの戦いを始めた。カールがポーランドを制圧するのに、結局5年以上もかかってしまったのである。これは大きな誤算であった。


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マゼッパとカール12世

 というのも、この間にピョートルは急速に軍隊を立て直していたからである。ロシアで初めて徴兵令が出され、15歳から20歳までの若者が全国からかり出され、5年間で17万の常備軍が編成された。教会や修道院の鐘が各地から集められ、300門の大砲が鋳造された。

 カールは1707年末、再びその鉾先をロシアに向け軍をウクライナに進めた。その地のコサックの頭目マゼッパと結んでロシアを攻略しようとしたが、補給路を断たれたスウェーデン軍は、1708年から翌年にかけての、100年来という寒波に襲われた。この冬の寒さはヴェネツィアの運河も凍ったと言われ、スウェーデン軍の陣営ではウォッカが樽の中で凍り、兵の吐く唾は地面に落ちる前に凍りついた。3000の兵が死に、ほとんどの兵が手足の凍傷に悩んだ。部下は進撃を思い止まらせようとしたが、カールは「たとえ天使が天降って余に戻るよう告げたとしても、決して引き返さないであろう」と断言し、1709年、春の洪水期が過ぎるやロシア軍の要塞ポルタヴァを攻撃した。

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ポルタヴァの戦い
 
 この時、両軍の兵力はロシア軍が砲72門、兵4万2000、スウェーデン軍が砲4門、兵3万。6月27日の早朝4時、スウェーデン軍は機先を制して攻撃を開始した。戦闘の始まる前にロシア軍の盲射によって足を負傷していたカール12世は、24人の兵のかつぐ輿に乗ったが、この中21人がロシア軍の弾丸に倒れ、王自身も3発の至近弾を浴びた。ロシア軍の新式銃と大砲の威力がいかんなく発揮されたからである。

  戦闘は午前11時にはもう勝敗が決し、スウェーデン軍の死者1万、捕虜2800、ロシア軍の死傷者は5000であった。カールとマゼッパは1000人の部下とともにドニェプル川をわたってオスマン帝国領へ逃れた。

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カール12世の葬送

 5年間トルコに滞在したカールは、1714年冬、意を決してオスマン帝国を離れ、従者一人をつれて騎馬でヨーロッパを縦断、14日間かかってスウェーデンに帰った。再起をかけてノルウェーをデンマークから奪おうとしたカールは1718年、戦況視察中に頭部を打ち抜かれ戦死した。

 味方から撃たれたのではないかという説が根強かったので、1960年代に遺体を掘り出して調査したところ、前方わずか20mから撃たれたものであることが判明したという。現在ストックホルムのオペラ座裏の公園にあるカール12世の銅像は右手を遠くロシアの空を指している。

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ペテルブルクの地図

 「ポルタヴァはピョートルにヨーロッパへの道を開いた」と言われるが。スウェーデンの敗北によって、ロシアは初めてバルト海への出口を持つことが出来た。

 ピョートルはまずフィン湾に注ぐネヴァ川の三角州に新しい都市を造った。これが「西欧への窓」と言われるペテルブルク(サンクトペテルブルク)の興りである。もとここはニーンシュタットと呼ばれた寒村で、わずか15軒の掘立小屋が並び、スウェーデンの漁夫が住んでいた。付近は密林で、葦の生い茂るひどい湿地帯、天候が荒れると高波が押し寄せ、浪を被るのが常であった。


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サンクトペテルブルク建設にピョートル大帝

1703年にピョートルはこの村を焼き払わせ、その跡に小さな窓のない二部屋からなる木造のバラックを造り、自らここに移り住んだ。これがロシアの新しい首都ペテルブルクの礎石となった。

 次いで対岸の「兎の島」(マトリン島)と呼ばれるところに、この都を防衛する要塞を造ったが、これが後のバルチック艦隊の基地クロンシュタットである。ピョートルの構想になる首都建設は「ポルタヴァの勝利」の後に本格化し、「費用と出血を惜しまず」、ピョートル一流の性急さをもって推し進められた。

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ペテルブルク建設を視察するピョートル

 それは、「史上いかなる戦争も、これほど多くの労働者を殺したことはない」と言われるほどひどいものであった。10年の歳月をかけ、4万の農奴、5000人の職人の労働がこれにつぎ込まれた。労力不足を補うため全国に令を出して人狩りを行った。伝説によれば、彼らは栄養不良で、湿気と寒さに苦しみ、群れをなしてバタバタ斃れ、そのまま沼地に埋められたという。この恐ろしい物語は、「かくして、ペテルブルクは人骨の上に建てられている」という文句で終わる。

 こうして非常な困難の末、ヨーロッパで最も新しい、そして最も美しい首都が出現したが、ピョートルはこれを「パラダイス」と呼び、「あと3年もすれば、フランス王のヴェルサイユ宮殿を凌ぐ」と、その庭園の美しさを誇った。

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ピョートル1世の臨終

 近代国家の建設者として「新しきロシア」をもたらしたピョートルも、その末路は哀れであった。晩年には「空前の栄光」の中ですでに疲れ果てていたが、1724年11月、ペテルブルクに近い港で沈むボートから水兵を救うため真冬の海に飛び込み、これがもとで体調が悪化し、1725年1月28日に亡くなった。まだ53歳の若さだった。(おわり)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/28 05:25 】

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