なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
カテゴリ
最新記事
fc2カウンター
月別アーカイブ
- 2023/10 (1)
- 2023/09 (13)
- 2023/08 (13)
- 2023/07 (8)
- 2023/06 (9)
- 2023/05 (9)
- 2023/04 (8)
- 2023/03 (9)
- 2023/02 (8)
- 2023/01 (9)
- 2022/12 (9)
- 2022/11 (9)
- 2022/10 (8)
- 2022/09 (9)
- 2022/08 (9)
- 2022/07 (9)
- 2022/06 (8)
- 2022/05 (10)
- 2022/04 (9)
- 2022/03 (9)
- 2022/02 (8)
- 2022/01 (8)
- 2021/12 (9)
- 2021/11 (9)
- 2021/10 (9)
- 2021/09 (8)
- 2021/08 (9)
- 2021/07 (9)
- 2021/06 (9)
- 2021/05 (8)
- 2021/04 (9)
- 2021/03 (9)
- 2021/02 (8)
- 2021/01 (9)
- 2020/12 (9)
- 2020/11 (8)
- 2020/10 (9)
- 2020/09 (9)
- 2020/08 (8)
- 2020/07 (9)
- 2020/06 (9)
- 2020/05 (9)
- 2020/04 (8)
- 2020/03 (9)
- 2020/02 (9)
- 2020/01 (9)
- 2019/12 (9)
- 2019/11 (8)
- 2019/10 (9)
- 2019/09 (9)
- 2019/08 (7)
- 2019/07 (9)
- 2019/06 (9)
- 2019/05 (9)
- 2019/04 (8)
- 2019/03 (9)
- 2019/02 (8)
- 2019/01 (10)
- 2018/12 (9)
- 2018/11 (10)
- 2018/10 (10)
- 2018/09 (5)
- 2018/08 (4)
- 2018/07 (5)
- 2018/06 (6)
- 2018/05 (2)
- 2018/04 (5)
- 2018/03 (3)
- 2018/02 (3)
- 2018/01 (4)
- 2017/12 (4)
- 2017/11 (3)
- 2017/10 (3)
- 2017/09 (3)
- 2017/08 (1)
- 2017/07 (1)
- 2017/06 (2)
- 2017/05 (1)
- 2017/04 (3)
- 2017/03 (1)
- 2017/02 (2)
- 2017/01 (4)
- 2016/12 (2)
- 2016/11 (1)
- 2016/10 (2)
- 2016/09 (2)
- 2016/08 (2)
- 2016/07 (1)
- 2016/06 (2)
- 2016/05 (5)
- 2016/04 (1)
- 2016/03 (1)
- 2015/11 (1)
- 2015/09 (1)
- 2015/08 (2)
- 2015/07 (1)
- 2015/06 (2)
- 2015/05 (2)
- 2015/04 (1)
- 2015/03 (2)
- 2015/02 (1)
- 2015/01 (3)
- 2014/12 (4)
- 2014/11 (4)
- 2014/10 (4)
- 2014/09 (5)
- 2014/08 (8)
- 2014/07 (6)
- 2014/06 (2)
- 2014/05 (6)
- 2014/04 (3)
- 2014/03 (10)
- 2014/02 (5)
- 2014/01 (15)
- 2013/12 (11)
- 2013/11 (23)
- 2013/10 (16)
最新トラックバック
最新コメント
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード

権力者の死は、その権力が強ければ強いほど「後継者」問題を不安定にする。ピョートル1世の死はその好例である。ピョートル1世からエカチェリーナ2世の即位までの間に37年の歳月が流れた。この間に、帝位継承をめぐって6回も宮廷クーデタがあり、4人の女帝と3人の皇帝が交替した。
ピョートル1世も父と同じく2度結婚した。最初の妃エウドキアとの間に生まれた長男アレクセイが彼の後継者とみなされたことは、ある意味当然であった。だがこの父と子は、最初からウマが合わなかった。それはピョートルが妃と別居し、まだ8歳のアレクセイからある日突然、母を奪ったことが大きな原因であった。母のもとで信仰心篤く育てられたアレクセイは、父の強制的な後継者教育にことごとく反感をもつようになったのである。
西欧化に反発するアレクセイの周囲には反体制派が集まって、無視できない勢力となっていった。1716年、アレクセイはウィーンに亡命したが、翌1717年ナポリでロシア政府に拘束され連れ戻された。ピョートルは王子が政府転覆の意思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清した上でアレクセイの継承権を奪った。アレクセイは1718年に死刑を宣告され、その直後に獄死している。28歳であった。
ピョートルの後継者の地位は、2度目の妃エカチェリーナが産んだ皇子ピョートル=ペトロヴィチに移ったが、この幼い皇子は1719年に薨御し、皇男子は一人もいなくなってしまった。
ピョートルの後継者の地位は、2度目の妃エカチェリーナが産んだ皇子ピョートル=ペトロヴィチに移ったが、この幼い皇子は1719年に薨御し、皇男子は一人もいなくなってしまった。
1725年2月8日、ピョートル1世は断末魔の苦しみに藻掻きながらも、最後の力を振り絞ってペンをとり、「すべてを与えよう…」と書いたが、肝心の「誰に」という所でガックリと力が抜け、息絶えた。このようにピョートルは一片の遺書すら残すことなく世を去ったので、その死後、帝位は宙に浮き、改革の前途も暗澹たるものになった。
結局、ピョートルの2度目の妃である皇后が、近衛部隊により担ぎ出されてエカチェリーナ1世として同日中に即位した。こうして卑賤な生まれのリヴォニア農民の娘がロシア史上最初の女帝となったのである。わずか2年の短い治世は近衛連隊のご機嫌取りに終始し、宴会の席にまで出て将校たちに酌をしてまわった。改革事業は放棄され、宴会に続く宴会で、9000万ルーブルという巨額の国費が浪費された。
結局、ピョートルの2度目の妃である皇后が、近衛部隊により担ぎ出されてエカチェリーナ1世として同日中に即位した。こうして卑賤な生まれのリヴォニア農民の娘がロシア史上最初の女帝となったのである。わずか2年の短い治世は近衛連隊のご機嫌取りに終始し、宴会の席にまで出て将校たちに酌をしてまわった。改革事業は放棄され、宴会に続く宴会で、9000万ルーブルという巨額の国費が浪費された。
女帝の臨終が迫ると、またも帝位継承をめぐる紛争が起こった。女帝には娘ばかりで息子がいなかったからである。そこでピョートル1世の先妻の孫で、死刑になった皇太子アレクセイの12歳の遺児が担ぎ出された。これがピョートル2世である。しかし、彼は結婚式の当日になって天然痘で急死、わずか3年の短い治世を終えた。
アンナ
そこで重臣は協議し、バルト海沿岸の小国クールラント公に嫁して、すでに未亡人になっているアンナを女帝とした。彼女はピョートル1世の異母兄イヴァンの娘で、この時37歳になっていた。背が高く、肥満型の女性で、顔は男のようにきつかった。性質も冷酷で意地悪だったと言われている。
アンナの治世10年間は、ロシア史の「暗黒のページ」と言われる。彼女のそばにおべっかつかいや道化師がいなければ機嫌が悪く、うわさ話を好み、人間を卑しめ侮辱することを喜んだ。
アンナの治世10年間は、ロシア史の「暗黒のページ」と言われる。彼女のそばにおべっかつかいや道化師がいなければ機嫌が悪く、うわさ話を好み、人間を卑しめ侮辱することを喜んだ。
イヴァン6世
1740年10月、アンナの後継者指名を受けてイヴァン6世(アンナの姉の孫)が生後僅か2カ月で帝位に就いた。しかし翌1741年11月、ピョートル1世の娘エリザヴェータが自分を支持する近衛軍に命じて宮廷クーデターを起こさせ、幼帝イヴァン6世はあっけなく廃位された。

エリザヴェータ
エリザヴェータはイヴァンの存在を歴史から消し去る事を徹底する。すなわち彼の名前を口にする事を禁じ、名前の記された書物は焼かれ、記念碑は破壊された。また、彼の肖像が刻まれた通貨は使用を禁じられ回収された。知らずにこの通貨を使った者さえ投獄するという徹底ぶりであった。
イヴァン6世の遺骸の前に立ち尽くすミローヴィチ
家族と引き離されたイヴァンは幽閉されて育ち、1756年にシュリッセリブルクにある要塞内の監獄に移送された。エリザヴェータ以後の皇帝は皆、廃帝イヴァン救出の目論みがあれば即刻彼を殺すよう命じていたとされる。1764年にウクライナ人士官ヴァシーリー=ミローヴィチが救出を試みた際、看守により刺殺された。まだ23歳であった。
エリザヴェータの治世は20年間続いた。彼女は父帝に似て精力家であり、無軌道な行動も多かった。その母が素性の賤しいエカチェリーナであったせいか、娘時代のエリザヴェータは放任されて育った。成人してからの彼女の生活もきわめてふしだらで、朝起きるのも、夜寝るのも、また食事するのも、すべて時間におかまいなしだった。
女帝となっても娘時代の夢が忘れられず、観劇、遊楽、宴会、ダンス、仮装舞踏会に日を送り、宮廷はさながら劇場と化した。彼女が死ぬと、その衣装部屋には1万5000着のドレスと2梱いっぱいの絹の靴下が発見された。要するにエリザヴェータは女帝としてレジャーを最大限に楽しんだことになる。
カール=ペーター(ピョートル3世)
エリザヴェータが死んだ時、一滴の涙も流さない男が一人いた。彼にはロシア人の血は半分しか流れておらす、涙も知らない人間で、女帝の残した「不愉快なもの」のうちで、最も不愉快なものだった。この男こそ、他ならぬ女帝の後継者、ピョートル3世である。
エリザヴェータにはドイツのホルシュタイン公に嫁した姉アンナがおり、その子がカール=ペーターであった。エリザヴェータは初恋の人が若死にしたので一生独身で通し、子供はいなかった。そこで、彼女は即位後すぐに甥のペーター(当時14歳)を養子に引き取り、後継者に指名した。彼はピョートル1世の血を引くただ一人の男子だったからだ。
ところが、初めて会ったペーターを見て、エリザヴェータはすっかり呆れてしまった。彼女は15分間とまともな話しが出来ず、悲しみ、怒り、ついで嫌悪した。居間に戻った彼女は、側近と顔を合わすと、涙を流し、「神さまがとんでもない跡継ぎを私に与えてくれました。こんなかたわのような、出来損ないの、いまいましい甥は悪魔にでもさらわれのがいいのに」と愚痴をこぼしたという。
ピョートルは生来病弱で低脳、いつまでも子供であった。そのうえ宮廷に入ってからは、悪いことに酒色の味を覚え、とうてい皇帝の器ではなかった。彼は子供につきものの英雄崇拝からフリードリヒ大王に心酔し、大人になってもそのまねをして喜んでいたが、後に帝位につくや七年戦争から離脱して、西欧諸国民を驚かせた。
こんな男であっても、エリザヴェータはピョートルが17歳になった時にその嫁探しをすることになった。その結果選ばれたのがプロイセン国王の家臣の娘ゾフィー、後のエカチェリーナ2世であった。まだピョートルの話は続くが、続きは次回の「エカチェリーナ2世」で。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
こんな男であっても、エリザヴェータはピョートルが17歳になった時にその嫁探しをすることになった。その結果選ばれたのがプロイセン国王の家臣の娘ゾフィー、後のエカチェリーナ2世であった。まだピョートルの話は続くが、続きは次回の「エカチェリーナ2世」で。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト