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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー酔っぱらいクーデタ・エカチェリーナ2世①

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ゾフィー(後のエカチェリーナ2世)

 ゾフィーは1729年4月21日、北ドイツ(現在はポーランド領)のシュテッティンでプロイセン軍少将の娘として生まれた。7歳の時に王妃となる夢を抱き、その頃親戚筋にあたるホルシュタイン公子ピョートルがロシア皇太子になったことを聞いて、「その妃になることを深く心に決めた」という。この娘はすでに「花嫁」よりも「帝冠」に憧れていたのである。またこの頃から、彼女は自分が美人でないことを知り、「賢い女」になろうと決意し、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。

 母・ヨハンナの早世した長兄カール=アウグストがロシアの女帝エリザヴェータの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となり、1744年ペテルブルクにやってきた。新教徒であった彼女はギリシア正教に改宗し、エカチェリーナという新しい名前をもらった。それととも自らすすんでロシア語を学び、その習慣にとけ込もうと努力した。

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ピョートル3世

 ある時エカチェリーナが、何気なく夫の部屋に入ると、ピョートルはオモチャの兵隊の閲兵式をやっていた。みると天井から縄がさがり、その先に大きな鼠が1匹ぶらさがっていた。この異様な光景にびっくりした妻が、「いったい、これはどうした訳なのです」と尋ねると、「鼠が重罪を犯したから軍法に従って処罰したのだ。そいつはテーブルの上の紙の要塞を壊し、パン粉で作った2人の歩哨を食べてしまった。だから引っ捕らえて軍法会議にまわし、絞首刑を宣告したのだ」と。さすがのエカチェリーナも、これには開いた口が塞がらなかった。

 彼女より1つ年上のこの夫は、1762年に皇帝になるといよいよ手がつけられなくなった。まず朝から酒を呑んで酔っぱらい、崇拝するフリードリヒ大王の真似をして、英雄気取りでむやみにタバコをふかし、ビールをがぶ飲みし、夜になると、プロイセン人の下士官たちからなる国際的ならずもの部隊、いわゆる「ホルシュタイン近衛軍」を集めてどんちゃん騒ぎをやった。

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フリードリヒ2世と仕官たち

 皇帝の妃で、しかもドイツ人であったエカチェリーナが思いがけず帝位についた原因は夫たるピョートル3世の度の過ぎたプロイセン贔屓であった。ピョートルは30年以上におよぶ3人の女帝の時代にいささか嫌気がさしていたロシアの朝野をあげての期待を受けて即位した皇帝であった。にも拘わらず期待は見事に裏切られた。プロイセン国王の崇拝者であった彼は自分の出身地の者を重用し、しして軍にプロイセン的な規律を導入した。

 それだけなら、まだ許されたかも知れない。1762年3月、彼は占領中のベルリンから一方的に兵を撤退させた。七年戦争は、すでにロシア人約30万人の人命と3000万ルーブルという多大な流血と犠牲を強いていたが、その勝利は目前であった。そこにこの皇帝の命令である。ロシア人たちは歯ぎしりして悔しがったと、当時の記録は伝えている。

クーデタを指揮 
クーデタを指揮するエカチェリーナ

 1762年6月、プロイセンとの講和祝宴にあたって、ピョートルは立ち上がって「フリードリヒ大王万歳!」の祝盃をあげた時、ただ一人エカチェリーナだけは断固として乾盃を拒絶した。怒ったピョートルは、大声で妻を罵り、「この馬鹿野郎!出て行け!」と怒鳴った。

 この事件の噂が首都に広がると、かねてピョートルの親プロイセン政策に反対の近衛兵は「エカチェリーナ万歳!」を叫び、ペテルブルク市民もそれに同調した。近衛将校の一人は、彼女の泊まっていた離宮に赴き、「陰謀が発覚したので、すぐ自分と同行されたい」と訴えた。彼女が馬車に乗ると、馬車はそのまま近衛連隊に入り、その射場で皇妃への宣誓式が行われた。

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ピョートルの愛人ヴォロンツォヴァ

 すべては6月28日の夜に決した。クーデタはあっけなく成功し、ピョートルはショックに耐えかねて離宮の中で卒倒した。まもなく気がついた彼は、エカチェリーナが派遣した軍使の前に跪き、その手をとって、彼が大切にしている4つのものだけは取り上げないでくれと哀願した。それは、ヴァイオリンと、愛犬と、黒人奴隷と、そして愛人のエリザヴェータ=ボロンツォヴァ嬢であった。このうちはじめの3つは聞き届けられたが、第4のものは許されなかった。

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戴冠式でのエカチェリーナ
 
 その翌日、エカチェリーナは、ペテルブルクで盛大に即位の式をあげた。このとき彼女は芳紀まさに30歳。皇妃はいまや女帝にかわったのである。

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近衛兵と群衆に迎えられ冬宮のバルコニーに立つエカチェリーナ

 「陽気な貴婦人加盟句」と言われるこの事件は、その名にふさわしく一滴の血も流さないで成功したが、その代わりアルコール代が恐ろしく高くついた。この日、首都のすべての酒場が軍隊に開放され、狂喜した兵士とその妻たちがウォッカ、ビール、ワイン、シャンパンから蜂蜜にいたるまで、手当たり次第にバケツや樽につぎこんで持ち去ったというのである。この時の損害を商人に賠償するために元老院はじつに3年間も頭を悩ますことになった。

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ピョートル3世とエカチェリーナ2世の棺

 その陽気な革命騒ぎの中で、とつぜん廃帝ピョートルの死が報じられた。ピョートルは首都に近い宮殿に幽囚の身となり監視されていたが、1週間後に友人と口論し、つかみ合いの喧嘩をして殺された。女帝はそれを聞いて暗然とし、暫くは口もきけないほどであったという。

 ピョートルの葬儀は受胎告知教会で行われ、3年前に1歳余りで亡くなった娘アンナ=ペトロヴナの墓の背後に寂しく埋葬されたが、その葬儀にエカチェリーナは出席しなかった。

 ピョートルの死から34年後の1796年11月17日、エカチェリーナが崩御すると、息子のパーヴェル1世はピョートルの墓を受胎告知教会からペトロパヴロフスキー大聖堂に移し、エカチェリーナとともに埋葬した。仲の悪かった二人だが、今は仲良く並んで眠っている。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/04 05:31 】

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