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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー玉座の上の娼婦・エカチェリーナ2世②

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エカチェリーナ2世

 エカチェリーナ2世はピョートル大帝に続いてロシア帝国領土の拡張に努め、南下政策を具体化して1768年にロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開してオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認させるなど領土拡大に成功をおさめ、大帝と称された。

 しかし、私生活の面では生涯に12人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。

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セルゲイ=サルトゥイコフ伯爵

 1745年にピョートル3世と結婚したが、不仲により長期間夫婦の関係はなく、エカチェリーナはセルゲイ=サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになっていた。エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも、むしろ積極的に勧めたとも言われる。ピョートルの方も大宰相(帝国宰相)ミハイル=ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ=ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦の関係は完全に破綻する。

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パーヴェル

 1754年に長男のパーヴェルが生まれているが、その出生に当たっては、父親はサルトゥイコフ伯爵であるという説があり、エカチェリーナ自身が回想録でそのことを強くほのめかしている。エカチェリーナはピョートルが不能であり、子供を作ることはできなかったと主張しているが、現存するピョートルのエカチェリーナ宛の手紙の内容はこれを否定している。パーヴェルの外見や性格は公式の父であるピョートル3世に類似しており、真相は明らかではない。

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スタニスワフ

 1755年、スタニスワフはロシア駐在のイギリス大使の秘書としてペテルブルクに赴任した。エカチェリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだった。

 スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナまで生まれたが、スタニスワフは1759年、ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった。1764年、スタニスワフはエカチェリーナの後押しでポーランド国王に選出され、これがポーランド分割の引き金となった。

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グリゴリー=オルロフ公爵

 スタニスワフがポーランドに帰ったあと、愛人となったのが5つ年下の近衛軍将校グリゴリー=オルロフ公爵であった。オルロフはエカチェリーナ2世を女帝に即位させた宮廷クーデターの首謀者であり、クーデターが成功した後は共同統治者同然だった。

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アレクセイ

 1762年、軍やロシア正教会によるピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こるが、オルロフとの子供を妊娠中だったエカチェリーナはすぐには動きがとれなかった。そこで、オルロフがピュートル3世を火事で陽動して、4月11日に極秘出産したのがアレクセイで、ビーバー(ロシア語でボーブル)の毛皮に包まれて宮殿から連れ出されたため、ボーブリンスキーの姓を与えられた。

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グレゴリー=ポチョムキン

 オルロフも伯爵となり、侍従長、陸軍中将に昇進したが、10年もすると女帝の愛情は、もっと若いポチョムキンに移った。この新しい寵臣も、伯爵となり侍従長となるが、無骨一点張りのオルロフとは違って、モスクワ大学を首席で卒業した秀才であり、貴婦人仲間では、「いなければ話題が彼に集中し、現れれば視線が彼に集中する」と評判された美男子であった。

 彼は女帝より10歳も年下で、約17年の間女帝の寵愛を一身に集めた。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。

 ポチョムキン伯は後に公爵となり、ロシア=トルコ戦争の総司令官として遠征中に亡くなったが、その報せを聞いた女帝は3度も卒倒し、「両腕をもがれた」ように失望落胆したという。

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 晩年のエカチェリーナ2世

 齢初老を過ぎてからも、この女帝は寵臣なしではいられなかった。寵臣の採用にはすでに一定の手続きが生まれていた。まずニューフェイスをスカウトするのは侍女の役目であり、ついで女帝の首実検と宮廷医師の身体検査があり、最後に「エルミタージュ(「隠れ場所」の意。冬宮の一部に造った女帝専用の部屋)への招待」でOKということになった。

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アレクサンドル=マモーノフ

 第11番目の寵臣マモーノフは、すでに60歳を越えた女帝の色香に嫌気がさし、シェルバート公の若い令嬢と恋仲になった。そこで恐る恐る辞表を提出し、この令嬢と結婚するお許しを願った。ところが叱られると思いきや、女帝はあっさりとこれを許し、たくさんの贈り物までもらった。

 そこまでは良かったが、喜びのあまりつい気を許したマモーノフが新妻との寝物語で女帝との交渉のいきさつや、その変わった性癖などを話し、しかもそれが運悪く妻の口から外部に漏れ伝わり、女帝の耳にまで入ったから大変である。

 ある晩のこと、この夫妻が寝室でやすんでいると、モスクワの警察署長が現れた。彼は女帝の命令書を示して別室に退いたが、それと入れ替わりに入って来た6人の婦人(実は変装した警察官)は、泣き叫ぶ妻を捕まえて裸にし、これを鞭で殴り始めた。この処罰が終わるまで、哀れな夫はその前に跪いていなければならなかった。やがて署長が現れて、「女帝の御処罰は今日はこれでお終いだが、今度不謹慎な真似をすると、シベリア送りだぞ」と脅かして引き揚げて行ったという。

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プラトン=ズーボフ

 最後の愛人となったのはプラトン=ズーボフ。エカチェリーナ2世は、ズーボフと人生最後の7年を過ごした。ズーボフより35歳も年上だったが、本気で愛していたそうだ。ズーボフはポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外に大した能力はなく、女帝の死と共に失脚した。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/07 05:26 】

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