なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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北方戦争はポーランドの戦争でもあった。激しい戦争の舞台となったポーランドは飢餓と伝染病にみまわれ、孤独は荒廃した。それ以上に致命的であったのは、その政治的な結果である。ポーランドでは1572年にヤゲウォ朝が断絶してから選挙王制をとってきたが、この時から国王の選出が大国の意向に大きく左右されるようになったのである。
戦争が始まった時、ポーランド国王の地位にあったのは、ザクセン出のアウグスト2世であった。ロシアのピョートル1世と結んで対スウェーデン戦争に入ったのも束の間、彼はカール12世の軍に敗れ、王位を追われた。
戦争が始まった時、ポーランド国王の地位にあったのは、ザクセン出のアウグスト2世であった。ロシアのピョートル1世と結んで対スウェーデン戦争に入ったのも束の間、彼はカール12世の軍に敗れ、王位を追われた。
スタニスワフ=レシチンスキ
かわってカールの支持を受けて即位したのがスタニスワフ=レシチンスキであったが、スウェーデンの敗退とともに、彼もその地位を追われた。そして、ピョートルの支持をうけてアウグスト2世が復位したのである。
だが彼の眼は、もともとザクセンのほうを向いており、ポーランドを顧みなかった。そのためアウグストが亡くなった時、ポーランド議会(セイム)は再びスタニスワフ=レシチンスキを選出したのである。
だが彼の眼は、もともとザクセンのほうを向いており、ポーランドを顧みなかった。そのためアウグストが亡くなった時、ポーランド議会(セイム)は再びスタニスワフ=レシチンスキを選出したのである。
これにはロシアが、そしてオーストリアも黙っていなかった。アウグストの息子(3世)を担いだのである。ここにポーランド継承戦争が起こった。1733年のことである。この戦争の主役はポーランド人ではなかった。ポーランド支配をもとめる大国間の戦争であった。結局、アウグスト派が勝利を収め、スタニスワフ=レシチンスキは再び野に下ったのである。
この間、ポーランド国政の無政府化はさらに進行した。アウグトス3世はザクセンの地にあり、ポーランドの政治はポトツキ家とチャルトリスキ家の権力争いと化していた。国会は完全に麻痺し、長年の戦乱と伝染病の流行で農民の困窮は深まり、都市も停滞した。

スタニスワフ2世
1763年10月、国王アウグスト3世が亡くなり、後任に選ばれたのはチャルトリスキ家の一門のスタニスワフ=アウグスト=ポニャトフスキ(スタニスワフ2世)であった。32歳の新国王は、実はロシアの女帝エカチェリーナのかつても「愛人」であり、女帝もこれを強く支持した。だがポーランドはロシアの思惑どおりの従順な国になったわけではない。熱意に燃える新国王は、即位するや否や王権の強化などの改革に着手したのである。

エカチェリーナ2世
ロシアに無断で、その意向に反して行われた改革に対して、エカチェリーナは当然のごとく圧力をかけてきた。

フリードリヒ2世
プロイセンのフリードリヒ2世もロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒した。フリードリヒ2世はポーランドを餌食にする征服計画を夢みていたが、それを単独で実現することは難しく、ロシアの動きに同調した。もとより、エカチェリーナも野心的な計画を持っていた。
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マリア=テレジア
また、マリア=テレジアについても「最初はひどく嫌がっていたが、しだいにためらいがなくなり」、オーストリアが列強の中で「最も強欲な国」であることを自ら暴露してしまう。
1772年、まずロシアとプロイセンとの間で条約が締結され、オーストリアがそれに加わった。3国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
上の絵はポーランド分割を風刺した図で、左からエカチェリーナ2世、スタニスワフ2世、ヨーゼフ2世、フリードリヒ2世である。オーストリアでは1765年にヨーゼフ2世が即位しているが、母親のマリア=テレジアが共同統治者として実権を握っていた。
第1次分割ののち、ポーランドは遅まきながら改革の道を突き進んだ。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタ(貴族)による国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主政・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ合衆国憲法につぐ先駆的なものであった。
エカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。
エカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。
プロイセンは1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗れていた。しかし、対仏戦争を続行する代償としてポーランド分割を強硬に要求した。対仏大同盟の結成へと動いていたエカチェリーナ2世はその要求を容れ、マリ=アントワネットの嫁ぎ先で革命が進行中のオーストリアがポーランド問題に無関心(バイエルン併合の幻想を抱いていた)を表明すると、1793年1月、ペテルブルクでロシア・プロイセンの2国によるポーランド分割協定に調印した。
ポーランド議会(セイム)
ポーランドでは第2回分割を承認するかどうかで議会(セイム)が開かれた。ロシア公使は反対する議員を逮捕し、議場を大砲で包囲した。誰一人として賛成の演説をするものはいなかった。議場は沈黙したまま真夜中まで続いた。議長がついに沈黙は同意の印と見なすと宣言して終了し、これが最後のセイムとなった。
こうしてロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口3000万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。
こうしてロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口3000万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。
この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く、コシューシコ自身も負傷して捕らえられて、鎮圧された。
コシューシコの蜂起
コシューシコが蜂起すると、ロシアのエカチェリーナ2世はプロイセンにも鎮圧の協力を要請し、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」と述べた、という。反乱を鎮圧したエカチェリーナはポーランド国王スタニスワフ2世に退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるでポーランドの最終的分割が行われた。
この第3回分割で、ポーランドはヨーロッパの地図から消えてなくなった。16世紀には中東欧でもっとも豊かだった大国ポーランドは、こうして悲劇的な結末を迎えたのである。ちなみに、当時ポーランドに住んでいた多くのユダヤ人も、三分割された。次の150年間、「東欧ユダヤ人」はポロムグ、ホロコーストという未曾有の受難の時代を過ごすことになるのである。
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この第3回分割で、ポーランドはヨーロッパの地図から消えてなくなった。16世紀には中東欧でもっとも豊かだった大国ポーランドは、こうして悲劇的な結末を迎えたのである。ちなみに、当時ポーランドに住んでいた多くのユダヤ人も、三分割された。次の150年間、「東欧ユダヤ人」はポロムグ、ホロコーストという未曾有の受難の時代を過ごすことになるのである。
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