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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーインド版「関ヶ原の戦い」・プラッシーの戦い

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アリーヴァルディー=ハーン

 1700年、アウラングゼーブ帝に派遣されて、ムルシド=クリー=ハーンが財務大臣としてベンガルに着任した。その後昇進した彼は1717年に正式に太守(ナワーブ)に任命され、その後ほぼ四半世紀にわたってベンガルの行政を掌握し、その間にムガル帝国からの独立傾向を強めた。彼が死ぬとその養子が跡を継ぎ、その跡は養子の息子が次いだ。

 しかし、1740年アリーヴァルディー=ハーンが太守の位を簒奪してしまう。17世紀後半以降、イギリスとフランスはインド各地に拠点を築き、そのうちの一つであったベンガルでは、18世紀になるとそれぞれの拠点で睨み合っていた。
しかし、アリーヴァルディー=ハーンはイギリスとフランス、オランダといったヨーロッパ諸国の貿易活動により、ベンガルの経済が支えられていることを知っており、これらの貿易活動を認めていた。そのかわり、イギリス、フランスがヨーロッパでの紛争を持ち込まぬよう最大限努力し、また、外国人がベンガル国内における争いに介入して勢力を拡大しないよう、細心の注意も払っていた。

シラージュ 
シラージュ=ウッダウラ

 アリーヴァルディー=ハーンは1756年4月9日に死んだ。それから6月23日に起きたプラッシーの戦いまでの展開は速かった。いわば突風が吹きすぎるように事件が続き、プラッシーの戦いの破局に至るのである。

 アリーヴァルディー=ハーンには跡継ぎがいなかった。そこで彼は娘の子シラージュ=ウッダウラを後継者に指名した。シラージュ=ウッダウラは「国家の光」を意味する称号で、本名はマフムード=アリー=ハーンである。シラージュ=ウッダウラは20歳そこそこの若者だった。彼は何事もないかのように、無事太守の位についたが、その舞台裏では後継争いの陰謀が盛んにめぐらされていた。一方、イギリスとフランスは七年戦争が起こることを予測し、戦争の準備に余念がなかった。

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ミール=ジャファール(左)とその息子

 複雑な経緯があったが、イギリス東インド会社が到達した結論は、シラージュ=ウッダウラは親仏的であり、太守の座から引きずりおろすべきだということだった。他方では、ムルシダーバードの大銀行家ジャガト=セートなどのインド人有力者の間で、アリーヴァルディー=ハーンの義理の兄であるミール=ジャファールを太守に担ぎ出す陰謀が進行していた。

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クライブ

 東インド会社のクライブはミール=ジャファールと密約を結んだ。 クライヴは18歳で東インド会社に雇われた事務官であった。しかし、1751年、第2次カーナティック戦争戦争でイギリス軍が不利な情勢になったとき、志願して500の兵を率いる大尉として敵陣に突入して軍功をあげ、東インド会社軍の司令官となった。

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ミール=ジャファールとクライブ

 クライブは太守の座をミール=ジャファールに約束し、その返礼としてミール=ジャファールは、東インド会社がベンガルで持っている特権をすべて承認し、東インド会社幹部に巨額の金額を支払うことなどを約束したのである。実際、プラッシーの勝利の後、ミール=ジャファールは125万ポンドを越す金額を、東インド会社の社員や軍人「個人」に対して支払ったと推定されている。クライブ一人だけで、23万4000ポンドと、3万ポンドの給与地を受け取ったのだった。

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 プラッシーはカルカッタの北方の村で、現在はポラシという。この近くにベンガル太守の軍が野営していた。それに攻撃を仕掛けるために、クライブはカルカッタを出発した。

 1757年6月23日未明、両軍はプラッシーの野で対峙した。ベンガル太守軍は歩兵5万、騎兵1万8000、大砲40門にフランス兵50名が加わっていた。それに対し、イギリス軍は歩兵950、インド人傭兵(シパーヒー)2100、6ポンド砲8門。兵力では圧倒的にベンガル・フランス連合軍が有利であった。

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 しかし、このときに降ったモンスーンの大雨によって重砲機は火がつかず、しかも、ベンガル太守側の兵士は雨に対する備えがなく、雨にも訓練されていたイギリス軍に圧倒されてしまう。

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プラッシーの戦いでのイギリス軍

 午後になってベンガル太守軍は攻勢に出たが、そこに思いがけない罠が仕掛けられていた。クライブに買収された参謀長ミール=ジャーファルの指揮する主力は戦闘を傍観するだけで動かず、太守の軍のなかで戦ったのは親衛隊とフランス軍だけであった。太守軍が優勢になると、あろうことか参謀長は「明日の勝利を期して」退却を太守に進言した。太守が退却を決意して命令すると前線の兵士は混乱して戦意を失い、戦況は一転してイギリス軍が逆転し、戦いはあっけなく終わってしまう。

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戦闘後、ミール=ジャファールと面会するクライブ

 ようやく気づいた太守はラクダに乗って逃れたが、4日後に捕らえられて処刑された。小早川秀秋の役割を担ったミール=ジャーファルは戦後に新しい太守に任命されたが、カルカッタ周辺のザミンダーリー(地租徴収権)を譲らされ、さらに賠償金支払わされ、クライヴの傀儡にされてしまったことに気がつくことになる。

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皇帝から徴税権を与えられるクライブ
 
 1765年、イギリス東インド会社ははムガル帝国皇帝シャー=アーラム2世からにベンガル地方における徴税権(ディーワーニー)を獲得し、単なる貿易商社からインド植民地支配機関へと転換した。

 一方、クライヴは本国に帰ると英雄として迎えられ、男爵となった。ついでベンガル総督に任命され莫大な資財を蓄えることができた。1767年、病気のため職を辞してイギリスに帰ったが、帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/15 05:24 】

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