なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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古典喜劇の完成者であるフランスの劇作家・俳優のモリエール。モリエールは家族の世間体をはばかって名乗った芸名で、本名はジャン=バチスト=ポクランといい、1622年1月15日にパリで生まれた。父親のジャン=ポクランは「王室付き」室内装飾業者で、ルイ13世に仕えており、家は豊かであった。
モリエールはイエズス会の名門コレージュ=ド=クレルモン(現在のルイ=ル=グラン)で古典語を学び、オルレアン大学で法律を学んで弁護士資格を得た。
父親の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりし家業を継ぐことを断念し、演劇の世界で生きていく決意を固めた。女優マドレーヌ=ベジャールに出会い、恋に落ちたことが原因であったようだ。モリエールは書面で父親に世襲権を抛棄する旨を宣言し、その権利を弟の一人に譲渡したいと申し出た。そして母親の遺産の一部(630リーヴル)を劇団結成の費用に充てるために至急支払ってくれるよう要求した。商人として社会的地位を一歩一歩高めてきた父親は驚き、親戚共々翻意を迫ったが、モリエールの決意を翻す迄には至らなかった。
1643年6月30日、マドレーヌを座長格、モリエールを副座長格として、「盛名劇団」を結成し、演劇への第一歩を踏み出した。劇団は客足を支えきれずに解散し、モリエールは同志とともに南フランス巡業の旅に出る。地方貴族の庇護を仰ぎつつ13年にわたってフランス中部・南西部を移動する間、劇団はしだいに実力を増し、リヨンに本拠を置く有力な地方劇団に成長した。モリエールはこの間劇団経営者として頭角を現し、同時にイタリア即興劇の系統を引く演技術・作劇法を身につけたものと推定される。
1643年6月30日、マドレーヌを座長格、モリエールを副座長格として、「盛名劇団」を結成し、演劇への第一歩を踏み出した。劇団は客足を支えきれずに解散し、モリエールは同志とともに南フランス巡業の旅に出る。地方貴族の庇護を仰ぎつつ13年にわたってフランス中部・南西部を移動する間、劇団はしだいに実力を増し、リヨンに本拠を置く有力な地方劇団に成長した。モリエールはこの間劇団経営者として頭角を現し、同時にイタリア即興劇の系統を引く演技術・作劇法を身につけたものと推定される。
ルイ14世の弟であるオルレアン公フィリップの庇護を受けることに成功し、王弟殿下専属劇団との肩書を獲得し、1658年10月24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことができた。
プチ=ブルボン劇場の様子
幸いなことに『恋する医者』はルイ14世から絶賛を浴び、大成功のうちに御前公演を終え、王室所有のプチ=ブルボン劇場の使用を許された。
翌1659年、笑劇仕立ての斬新な風刺劇『才女気取り』の成功により地歩を築き、ついでアルノルフという個性的な人物の創造によりこの期の頂点をなした『女房学校』によって名声を高めた。モリエールは「優れた劇詩人」の資格で国王より年金を賜り、この間一座はパレ=ロワイヤル劇場に移り、ここを終生の本拠とした。
ルイ14世の寵愛を一身に集める彼への嫉妬から、『女房学校』の内容が背徳的として激しい非難・攻撃を浴びた。彼も反論したが、文学史・演劇史からみれば、彼の諸作品は従来フランスの古典悲劇の落とし子として軽くみられていた喜劇を正統な文学の地位まで引き揚げることになった。
1664年5月、ルイ14世は新宮殿ヴェルサイユに600人を超える貴族たちを集め、1週間にわたるフェスティバル「魔法の島の歓楽」なる祝祭を開催した。この祝祭はヴェルサイユ宮殿と庭園の素晴らしさを貴族たちに印象付けることで、国王の力を誇示する目的を有していた。モリエール劇団も国王の命令でこの祝祭に参加したが、この祝祭は彼らのための祭りであると言っても過言ではないほど大きな役割を果たした。
この催しに『タルチュフ』(三幕)が参加している(ただし今日に残る五幕物『タルチュフ』のパレ=ロワイヤル劇場初演は1667年)。この作品は聖職者を気取る詐欺師の主人公を通じて、当時絶大な権力を握っていた教会側、とくにイエズス会系の結社「聖体秘蹟協会」に代表される聖職者の偽善を鋭くついたため、教会から激しく攻撃されて一時上演を禁止された。人間の自然をゆがめようとするものに注がれるモリエールの批判の目は、こうして教会勢力との対立を余儀なくされたのである。
1662年1月23日、40歳のモリエールは20歳のアルマンド=ベジャールと結婚した。モリエールの親友であったニコラ=ボアロー=デプレオーの証言に「モリエールは最初、マドレーヌ=ベジャールに恋をしたが、やがてその娘と結婚した」とあるように、同時代の人々はマドレーヌとアルマンドを親子として考えていた。この当時問題となっていたのは「父親は誰なのか?」という点のみである。
もし仮に父親がモリエールであるならば、即ちそれは近親相姦の罪を犯しているということであり、現在でも罪となる近親相姦は、17世紀当時は「神と人に対する大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。この点は当然、モリエールの敵対者たちに格好の材料を与えることになった。ルイ14世がモリエールの子供の名付け親となったことで、そのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃はやまなかった。
モリエールはこの若い妻アルマンドの浮気に生涯悩まされることになる。
もし仮に父親がモリエールであるならば、即ちそれは近親相姦の罪を犯しているということであり、現在でも罪となる近親相姦は、17世紀当時は「神と人に対する大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。この点は当然、モリエールの敵対者たちに格好の材料を与えることになった。ルイ14世がモリエールの子供の名付け親となったことで、そのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃はやまなかった。
モリエールはこの若い妻アルマンドの浮気に生涯悩まされることになる。
1673年2月10日、モリエール最後の作品となる『病は気から』の初演が開始された。初日から興行成績は好調であったが、それとは対照的にモリエールの体調は取り返しのつかない状態にあった。すでに死期は近く、咳も日を追うごとに激しくなっていった。
持病の胸部疾患をおして主人公を演じたモリエールは、公演の4日目、1673年2月17日、演技中咳の発作に襲われ、舞台を勤め上げるとそのまま倒れ、自宅に運ばれたが大量の喀血ののち息を引き取ったといわれる。51年の波瀾万丈の人生であった。
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持病の胸部疾患をおして主人公を演じたモリエールは、公演の4日目、1673年2月17日、演技中咳の発作に襲われ、舞台を勤め上げるとそのまま倒れ、自宅に運ばれたが大量の喀血ののち息を引き取ったといわれる。51年の波瀾万丈の人生であった。
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