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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーオランダの奇跡・グロティウス

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グロティウス

 グロティウスはオランダ独立戦争最中の1583年4月10日、オランダのデルフトの名門の家に生まれた。本名はフーゴー=デ=フロートといった。たいへんな神童で、8歳の時に彼の弟が亡くなっているが、それを嘆き悲しむ父親を慰めるためにラテン語の詩を書き、市長である父親を喜ばせたという。

 11歳でライデン大学に入学。ギリシア語も学び、数学・哲学・法学の論文を書いて、14歳で大学を卒業。名前もラテン風にグロティウスと名乗った。

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アンリ4世

 15歳の時、オランダ使節団の随員としてフランス国王アンリ4世のもとに使いし、国王から「オランダの奇跡」と讃えられ、帰途オルレアンで法学博士の学位を受けた。16歳で弁護士となり、24歳で検察官、30歳でロッテルダム市の市長に選ばれて政治家としてキャリアを積んでいった。

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『海洋自由論』

 グロティウスが22歳の時から執筆したのが主著のひとつ「海洋自由論」である。きっかけは1603年に起きたマラッカ海峡でのオランダ船によるポルトガル商船の拿捕事件であった。この事件は1494年に締結されたトルデシリャス条約を根拠に世界を二分し、独占的な交易権を主張するスペイン・ポルトガルへの新興海運国オランダのあからさまな挑戦だった。

 ポルトガルはこれに抗議し「東インドでの航行・交易は自国の固有の権利」と主張。グロティウスは、オランダ東インド会社の依頼でこの主張に対する弁護書を執筆し、これに手を加えて1609年に刊行されたのが『海洋自由論』であった。

  その中で彼は「海洋には境界がない。ゆえに誰にも帰属せず、どの国も排他的な権利を主張できない」と明快に宣言した。オランダはこれを論拠に独占を主張するスペイン・ポルトガルに真っ向から対決し、さらにイギリスとも対立していくことになる。

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オラニエ公マウリッツ

 1619年、36歳の時にグロティウスは政争に巻き込まれて逮捕された。グロティウスの巻き込まれた政争とは実質はカルヴァン派内の宗教対立であった。オランダはカルヴァン派(ゴイセン)が優勢であったが、予定説を巡って厳格に解釈して一切を神の選択に委ねるという主流派(オラニエ派)と、緩やかに解釈して人間の自由意志を重視するアルミニウス派が対立するようになった。各州の議会の中心勢力である都市貴族層の中にはアルミニウス派の影響力が強く各州の自由を主張したが、主流派は厳格なカルヴァン主義で連邦の宗教を統制しようとした。

 主流派はオラニエ家第2代総督マウリッツと結んでついに1617年の連邦議会で教義の統一を図った。その結果はオランダ連邦7州の4対3で主流派が勝利を占めた。ホラント州はオルデンバルネフェルトを中心に連邦は信仰まで統制すべきでないと反対した。

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マリア

 グロティウスもそれに同調した。主流派はアルミニウス派を裁判にかけ、オルデンバルネフェルトは死刑となり、グロティウス終身刑に処されてローフェスタイン城に幽閉された。1621年、妻マリアの助けによって、書物を運ぶ木箱に身を潜めて脱獄に成功し、本1冊を胸に携え、一路パリへと亡命した。

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ルイ13世

 パリに到着したグロティウスに対しフランス王ルイ13世は年金を与え、その生活を賄った。グロティウスはフランスにおいて、彼自身の著作の中で最も有名となる哲学の作品集を完成させることとなったのである。

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『戦争と平和の法』

 パリで執筆活動に専念していたグロティウスが、1625年、42歳の時に著したのが主著『戦争と平和の法』である。三十年戦争の最中、その惨禍を見たグロティウスが、人類の平和の維持の方策を模索し、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いた。これは、後の国際法の成立に大きな影響を与え、『海洋自由論』の思想も合わせてグロティウスは「自然法・国際法の父」と言われている。

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グスタフ=アドルフ

 1634年、グロティウスはスウェーデンの申し出を受けて、翌1635年から駐仏スウェーデン大使となったが、グスタフ=アドルフの推薦によるものだった。グスタフ=アドルフは『戦争と平和の法』をつねに携行するほど、グロティウスに惚れ込んでいた。グスタフ=アドルフは三十年戦争の最中の1632年に亡くなり、その遺言によってスウェーデンに雇用されることになったのである。

 1645年、フランスとスウェーデンが相互に大使を召還したとき、グロティウスはいったんストックホルムに帰った。クリスチナ女王からスウェーデンに定住するように勧められたのを断り、その年の8月リューベックに向け出発したが、暴風のため遭難し、上陸後同地に向かう途中、ロストックで8月28日夜半に没した。62年の波瀾万丈の人生であった。



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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/25 05:26 】

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