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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー約束の地へ・ピルグリム=ファーザーズ

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メイフラワー号

 1620年9月16日、新大陸に「約束の地」を求めて、イングランドのプリマス港から1隻の船がアメリカのヴァージニアを目指して出港した。

 船の名前はメイフラワー号。当時の船としては中型で、全長約32m、幅約7.6m、喫水約4m、重量は236トンであった。メイフラワー号には
クリストファー=ジョーンズ率いる27人の乗組員と、乗客102人が乗船していた。

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ピルグリムの船出

 102人の乗客のうち41人はイギリス国教会を強制するジェームズ1世の迫害から逃れたピューリタンたちであり、アメリカに渡る前には、一時オランダのライデンに移住するなど、信仰の自由を求めて移動したので、「ピルグリム(巡礼)」と言われた。残りはイギリス本国を捨ててアメリカで一旗あげたいと考えていた者たちであった。

 もともとの計画では2隻の船で航海する予定だったが、もう1隻の船は水漏れがするという理由で断念し、結局メイフラワー号単独での航海となった。必然的に乗組員と乗客は荷物のスペースが非常に制限されることになった。

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「メイフラワー契約」への署名

 病気に苦しめられた66日間の厳しい航海を経て、ケープ=コッド先端の釣り針のようになっているところ(プロビンスタウン港)に錨をおろしたのは11月21日のことだった。41名のピルグリムは上陸に先立ち、メイフラワー号の船中で「メイフラワー契約」を締結し、これに署名した。

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「メイフラワー契約」の手書きの写し

 キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することをめざしたものであるが、次のように書かれている。

 「神の名において、アーメン。下に署名した我々は、グレートブリテン、フランスおよびアイルランドの神、国王、信仰の守護者、等々の恩寵によって、崇敬する君主である国王ジェームズ1世 (イングランド王)ジェームズの忠実な臣民である。 神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、ヴァージニアの北部に最初の植民地を建設する為に航海を企て、開拓地のより良き秩序と維持、および前述の目的の促進のために、神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する。君主にして国王ジェームズのイングランド、フランス、アイルランドの11年目、スコットランドの54年目の統治年11月11日、ケープコッドで我々の名前をここに書することを確かめる。西暦1620年」

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ピルグリムの上陸

 ピルグリム達はヴァージニア植民地の成功の話を聞き、イギリス王室から勅許された土地であるハドソン河の河口を目指したのだが、天候によりヴァージニアのかなり北方のケープ=コッド(Cape Cod タラの岬の意味)に到達した。彼らの上陸地は、1614にジョン=スミスが発表した地図で「ニュー=プリマス」と名付けられた地域で、現在のマサチューセッツ州の東岸である。

 ピルグリム達はこの地にプリマス植民地を築き、「ピルグリム=ファーザーズ(巡礼者の始祖)」と呼ばれることになる。

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プリマス=ロック

 ピルグリム達が上陸して最初に踏みしめたと言われているのが、写真の「プリマス=ロック」だ。「1620」という数字は、1880年に刻まれている。

 白人にとって記念すべきこの岩は、インディアンにとっては侵略と民族浄化の象徴である。1970年の「ピルグリム=ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」のインディアン活動家のラッセル=ミーンズらがメイフラワー2世号のマストにAIMの旗を掲げ、「プリマス=ロック」をトラック1台分の土砂で埋めてみせるという抗議行動を行った。

スクアント 
スクアント

 入植当初の状況は厳しく、イギリスから持ってきた野菜や小麦は現地の土壌に合わず収穫に乏しかったため、翌1621年の4月までに半数程が病死した。

 ピルグリム=ファーザーズが上陸した土地には先住民インディアンのワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリム=ファーザーズに食糧や毛皮のジャケットなどを援助した。ワンパノアグ族のスクアントはイギリスに連れられて行った経験があるため英語を知っており、ピルグリム=ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。

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最初の感謝祭

 1621年の秋は収穫が多かったため、ピルグリム=ファーザーズは収穫を神に感謝する祝いにワンパノアグ族を招待した。祝宴は3日間におよび、料理が不足すると、ワンパノアグの酋長マサソイトは部族から追加の食料を運ばせた。この祝宴が感謝祭のもとになったと言われている。

 しかし、これには異論もあり、マサチューセッツ植民地の統治者ウィンスロップがアメリカにはインディアンとの間の戦争や虐殺、略奪という暗い歴史しか無いので、「明るい話を広めよう」と使われたという説もある。

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 しかし間もなく、白人入植者たちは入植範囲を拡げ始め、インディアンとの間で土地と食料を巡って対立が発生し、戦闘が起きるようになった。ピルグリムはまず1630年にマサチューセッツ族の領土に進入。ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。

 1636年には1人の白人がピクォート族に殺された事が切っ掛けでピクォート戦争が発生。ピルグリムは容疑者の引き渡しを要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大量虐殺を行った。 

 さらに、平和の条約を結んでいたワンパノアグ族との関係も悪化していった。マサソイトの息子メタコメットは父マサソイトが結んだ条約を不平等条約であるとして異議申し立てをし、これを拒絶されたためワンパノアグ族は1675年にピルグリムのプリマス入植地を攻撃。こうして白人が「フィリップ王戦争」と呼ぶ土地紛争が勃発した。この戦争は周辺部族も巻き込み、1676年に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者を出したのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/08/28 05:21 】

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