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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー我に自由を与えよ、然らずんば死を・パトリック=ヘンリー

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パトリック=ヘンリー

 パトリック=ヘンリーはスコットランドから入植したジョン=ヘンリーの息子として、1736年にヴァージニア植民地の農園において誕生した。パトリックは幼い頃から本に慣れ親しむというよりは、むしろヴァージニア植民地の森や川といった自然に親しんでいた。このようなパトリックにラテン語、ギリシャ語、さらには数学を教え込んだのは、牧師をしていた伯父と教養豊かな父親であった。 

 1754年、ヘンリーはサラ=シェルトンと結婚することになり、双方の両親は若い2人に6人の奴隷つきの300エーカーの農園を買い与えた。だがその仕事に向いていなかったヘンリーは、2年後にはその農園を売却してしまった。

 
その後ヘンリーは独学で弁護士となり、成功を収めた。というのも、頭脳明晰にして、弁舌爽やかというよりはむしろ舌端火を吐く激しい弁舌に長けていたからである。1760年に弁護士の口頭試問に合格すると、3年も経たないうちに、ヘンリーは1185件もの訴訟を処理する忙しさとなり、しかもそのほとんどの訴訟において勝訴を勝ち取った。

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植民地餓議会において印紙法反対の演説を行うヘンリー

 1763年、パトリックはイギリス国教会牧師の報酬にあてられていたタバコの価格決定権は、ヴァージニア自由人の権利だと雄弁に論じて名声を博し、1765年に植民地議会の議員に選出された。新人議員であったパトリックは、116人の議員中39人しか出席していない会期末の5月29日に、5つの決議を提案した。

 植民地人は本国人と同等の権利を有する事、「代表なくして課税なし」はイギリス憲政の本質である事、ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア議会だけである事などであり、そのうち印紙法を無効とする決議は、東部の特権的プランターの反対があったが、20対19でかろうじて可決され、この決議が「革命への信号」となった。

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タウンゼンド財務大臣

 イギリス政府は翌1766年3月に印紙法を廃止した。しかし、イギリス政府は名誉革命後、国王、貴族院、庶民院からなる議会の主権を唱え、植民地にもその権限が当然及ぶと考えていた。したがって、イギリス政府は植民地に対して立法権があることを確認する宣言法を、それと同時に採択し、翌1767年6月にはタウンゼンド諸法によって植民地の茶、ガラス、紙などの輸入に関税を再び課した。

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ボストン茶会事件

 タウンゼンド諸法は植民地側の抵抗に会い、1768年にはイギリス軍がボストンを占拠する事態にいたり、やがて1770年のボストン虐殺事件に発展した。ボストン虐殺事件の結果、本国議会はタウンゼンド関税の一部撤廃の動議を諮った。そして新しく導入された税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された。本国政府は植民地の同意を得ないままに課税することを試み続けたが、結局、ボストン茶会事件が起き、そして、1775年4月にアメリカ独立革命が始まるのである。

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「自由か死か」演説を行うヘンリー

 パトリック=ヘンリーの最も有名な「自由か死か」演説は、1775年3月23日にヴァージニア州リッチモンドのセント=ジョン教会で行われた。ヘンリーはヴァージニアはイギリスの支配に異議を唱えるニューイングランド地方の抵抗運動に参加すべきことを訴えて、特に有名な次の発言を演説の結びとした。

 「Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!」

 「鎖と隷属の対価で購われるほど、命は尊く、平和は甘美なものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。他の人々がどの道を選ぶのかは知らぬが、私について言えば、私に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ。」

 特に最後の最後の「自由を与えよ。然らずんば死を」という発言は人々を独立へと奮い立たせることになり、歴史に記憶される名文句となったのである。

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板垣遭難の図

 1882年4月6日、自由民権運動を進める自由党党首板垣退助が岐阜の自由党懇親会の演説を行った。演説を終えた板垣が暴漢に襲われた時に、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだというのは有名な話である。

 諸説あるが、実際には「痛い、医者を呼んでくれ」と言っただけで、有名な文句は発していないようだ。「新派劇の父」とされる川上音二郎が「板垣君遭難実記」の中で板垣に言わせたというのがどうも真相らしく、パトリック=ヘンリーの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」にヒントを得たものであったようだ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/08 05:12 】

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