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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー黒人奴隷を愛人とした大統領・トマス=ジェファソン

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トマス=ジェファソン

 トマス=ジェファソンは1743年4月2日、ヴァージニアの大農園主の子として宇生まれた。10人兄弟の3番目であった。14歳の時に父が死に、約5000エーカーの領地と数十人の奴隷を相続した。トマスはそこに家を建て、それが後にモンティチェロ(イタリア語で「小さな山」の意味)と呼ばれるようになった。

 トマスは大学卒業後に弁護士となり、ヴァージニア植民地議会議員(1769年~)を経て、アメリカ独立戦争が始まった直後の1775年6月、第2回大陸会議のヴァージニア代議員の一人となった。出席した代表中2番目の若さだったにもかかわらず、大陸会議は彼にイギリス首相フレデリック=ノース卿からの和解の提案に対する拒否など、いくつかの重要文書の起草を委任した。


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左からフランクリン、ジョン=アダムズ、ジェファソン

 6月10日、大陸会議はジェファソン、ジョン=アダムズ、フランクリンを含む5名を独立宣言の起草委員に選んだ。本来ならフランクリンが第一稿を書くのが当然だったが、当時彼は病床にあった。

 ジェファソンはすでに名文家として知られていたが、わずか33歳に過ぎなかったので、先輩のアダムズが引き受けるべきだと述べた。アダムズはそれを断り、この仕事はヴァージニア人が先頭に立つべきで(アダムズはマサチューセッツ代表)、ジェファソンは私より人気があり、10倍も文章がうまいといってその仕事をジェファソンに譲った。

 ジェファソンは「なるほど、貴方が心を決めてしまったのなら、私はできる限りやりますよ。」と答え、6月11日から自分の下宿に籠もり、僅か2週間で原案を書き上げた。

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5人委員会が草稿を大陸会議に提出

 ジェファソンは北アメリカ植民地の独立を、ジョン=ロックの社会契約論に依拠しながら、政府を樹立するのは個人の自由や権利を守るためであるので、政府が権力を乱用しその目的を破壊する場合には、人民に政府を改廃する革命権があることを根拠に正当化した。ジェファソンは個人の権利の内容を、ロックの「生命、自由、財産」から、「生命、自由、幸福の追求」へと変更した。それによって独立宣言は、財産権にとどまらない、時代を超える価値を付与されたのである。

 ジェファソンの書き上げた草案は、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。6月28日、大陸会議は委員会案を詳細に検討し、削除・修正を加え、独立宣言は7月4日に公布された。

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アメリカ独立宣言(1823年の複写)

 独立宣言への署名は1人目のジョン=ハンコックが8月2日に大書し、56人全員の署名が終了したのは11月の終わりだった。

 ジェファソン自身は大農園主で奴隷を所有していたが、奴隷貿易には反対し、黒人奴隷制度は徐々に消滅させていくことを主張していた。自ら起草した独立宣言の原案にも、国際的な奴隷貿易を非難する一文を入れていたが、その部分は議論の過程で削除された。独立後も彼はアメリカの黒人奴隷制問題に発言を続け、奴隷貿易の禁止を実現させ、奴隷制度の拡張には反対したが、彼自身が南部人であり奴隷所有者であることとの矛盾は覆い隠せなかった。

 その後ヴァージニアに戻ったジェファソンは、ヴァージニア議会で活動し、信仰の自由などを実現するなどの改革を行い、1779年にはヴァージニア知事となり、この間の体験をもとに、『ヴァージニア覚え書』を1785年に発表している。1783年から再びヴァージニア州代表として中央政界で活動するようになり、共和政の確立に尽力し、また西方への植民計画を立案した。また翌年からはフランクリンに次いで駐フランス大使となってパリに滞在した。

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ワシントンの大統領就任式

 アメリカ合衆国が発足し、1789年ワシントンが初代大統領になると、請われて初代の国務長官となったが、フェデラリスト(連邦派)の財務長官ハミルトンと対立、自らリパブリカン党(民主共和党)を創設して国務長官を辞任した。1796年の大統領選挙でアダムズに敗れて副大統領・上院議長となったが、1800年の選挙では連邦派を破って大統領となり、「1800年の革命」と言われた。

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マーサ

  私生活では、ジェファソンは1772年、28歳の時に23歳の未亡人マーサと結婚したが、わずか10年後に亡くし、ショックを受けてもう二度と結婚しないと決心した。

 しかし、女性との関係はなかなか華やかで、フランス公使をしていた1786年、43歳のジェファソンは27歳の人妻マリア=コズウェーと恋愛関係になり、二人で散歩中に調子に乗って柵を跳び越えようとして右手をくじき、麻痺が残った。

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サリー=ヘミングス

 また、自分の奴隷だった30歳も年下のサリー=ヘミングス(4分の1が黒人の血)とは、38年間も愛人関係が続き、子供が数人できたといわれている。そのうちの一人は、20世紀末に行われたDNA鑑定でジェファソンの子であると確認された。

 奴隷制に反対していたジェファソンだが、サリーを解放することなく奴隷のまま愛人にしていたわけで、公的な信念とは矛盾した私生活であった。

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トマス=ジェファソンの墓

 1826年6月、ジェファソンはアメリカ合衆国独立50周年の記念日に向けての声明文を書き「すべての目が人間の権利に向かってすでに見開かれ、あるいは、今見開かれつつあるのは」7月4日のゆえであると書いた。

 ジェファソンの旧友で、時には政敵でもあったジョン=アダムズは、7月4日に死の床にあり、心は動乱の革命の日々をさまよい、「トマス=ジェファソンはまだ生きている」との言葉を残して死んだ。ちょうどその数時間前、同じように、奇しくも彼の多くの貢献で特別の存在となった日の50周年記念日に、ジェファソンもまたこの世を去った。

 その5年後の7月4日、第5代大統領モンローも亡くなったことで、7月4日はさらなる神聖さを獲得し、アメリカ独立記念日となったのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/11 05:20 】

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