なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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フランクリンは、1706年1月17日マサチューセッツ植民地ボストンで生まれた。石鹸や蝋燭の製造業者であった父ジョサイアは、1683年に妻のアンとともにイギリスから移住してきた。1689年に7人の子を残してアンが亡くなったあと、ジョサイアはアバイアと再婚した。ベンジャミンはジョサイアの17人の子女のなかの第15子(10男)であった。
兄のもとで印刷術を学ぶ
フランクリンは小学校に入ったが、父親の家業を手伝うために僅か1年で退学を余儀なくされた。しかし、大の読書好きだったことから、11歳の時に印刷業を営んでいた兄ジェームズの徒弟となり、印刷技術を習得するとともに、時間を見つけ独学に励んだ。1721年、兄ジェームズは『ニュー=イングランド=クーラント』という新聞を創刊した。同紙の自由主義的論調により兄が投獄された時には、代わりに発行人となったこともある。
フランクリンの印刷所
しかし、ベンジャミンは兄との何度かの喧嘩の末に縁を切り、17歳でボストンを去り、フィラデルフィアに向かった。ベンジャミンの手持ちの金はオランダ=ドル1枚だけだったが、キーマーの印刷所に就職し、印刷出版業で順調に業績を伸ばすことができた。
18歳の時に、植民地総督の勧めでロンドンに渡り、植字工として働いた。20歳でフィラデルフィアに戻り、再びキーマーの印刷所で働いた後、自らの印刷所を開業した。
18歳の時に、植民地総督の勧めでロンドンに渡り、植字工として働いた。20歳でフィラデルフィアに戻り、再びキーマーの印刷所で働いた後、自らの印刷所を開業した。
1730年9月1日、フランクリンはデボラ=リードと内縁関係に入った。30年から31年にかけての冬に、デボラ以外の女性との間にウィリアムをもうけたが、ウィリアムの母親の名は生涯明かさなかった。
デボラとの間には1男1女があったが息子は夭折し、庶出のウィリアムを家庭に引き取って育てた。デボラとの生活は、彼女が1774年に亡くなるまで続いた。
デボラとの間には1男1女があったが息子は夭折し、庶出のウィリアムを家庭に引き取って育てた。デボラとの生活は、彼女が1774年に亡くなるまで続いた。
1729年から発行した週刊新聞『ペンシルヴェニア=ガゼット』は、彼自身の常識哲学と気のきいた警句も掲載して人気を高め、後にはアメリカで最初の雑誌を発行するなど、一流の経済人となった。巡回図書館、アメリカ哲学協会を設立し、ペンシルヴェニア大学設立を援助するなど、多くの公共事業に貢献した。
フランクリンは少年の頃から自然科学に強い好奇心を持っていたが、1740年に発明したのがペンシルヴェニア型暖炉である。燃焼効率の良いストーブで、一般にはフランクリン=ストーブと呼ばれている。その他に遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明したが、これらの発明に関する特許は取得せず、社会に還元した。
1748年にフランクリンは印刷業を他人に譲って研究に専念するようになったが、1752年には凧の実験で雷の正体が電気であることを証明したことは有名である。
雷雨の中、針金をつけた凧を揚げたところ、針金が電気を引き、凧糸が毛羽立ち、凧糸の下に取り付けた鍵を通してライデン瓶(蓄電池が発明される前の電気を蓄える装置)に電気を蓄えることができた。雷が電気であることを証明したフランクリンは、建物を雷から守る避雷針を発明した。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したといわれている。
この命がけの研究結果によってフランクリンはロンドン王立協会の会員となった。
独立宣言起草委員会
1757年、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣されたが、この時に彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学から名誉学位を授与されている。これからほぼ20年間、フランクリンはヨーロッパでアメリカ外交の主要なスポークスマンとして活躍した。かつまた、ロンドンを本拠に16年ほど、いくつかのアメリカ植民地の代表として働き、印紙法を廃止に追い込むなどの成果をあげた。
1775年3月、フランクリンはイギリス本国とアメリカ植民地の開戦は必至とみてアメリカに帰り、第2回大陸会議の代議員となって、独立宣言の起草に助力した。
1775年3月、フランクリンはイギリス本国とアメリカ植民地の開戦は必至とみてアメリカに帰り、第2回大陸会議の代議員となって、独立宣言の起草に助力した。
独立戦争が勃発すると、大陸会議はフランスに経済・軍事の援助を求めるため、フランクリンをフランス大使として派遣した。
ヴェルサイユ宮殿におけるフランクリン
科学者としてすでに名を知られていたフランクリンは、パリの社交界を中心に活動したが、新世界の大衆指導者として、かつまた気取りのない高潔さにより、セレブ女性の人気を得た。この際、当時のマナーである鬘を着けず、田舎風の毛皮の帽子をかぶりパリの社交界に現れたとされているが、これはフランス人のもつ「古い文明に毒されない素朴な人々」というアメリカ人のイメージを利用したという逸話がある。その後欧州諸国との外交交渉に奔走。独立戦争へのフランス王国の協力、参戦と、他の諸国の中立を成功させた。
フランクリンはその後1785年まで、アメリカの政治的利害の代表者としてフランスに留まったが、81年にヨークタウンでアメリカ側が決定的な勝利を得てからは、大陸会議の和平交渉使節団の一人となり、イギリスが敗北を認め、アメリカの独立を承認することになった1783年のパリ条約に調印した。彼は引き続き2年間フランスに滞在して、フランスとアメリカとの通商条約の締結に努力した。
合衆国憲法に署名するフランクリン
1785年に帰国したフランクリンは、まもなくペンシルヴェニア議会の議長に選ばれ、3年間在職した。1787年には憲法制定会議の代議員に選ばれている。「老人は泣いた」と題される上の絵には、合衆国憲法に署名するときに涙を流すフランクリンの姿が描かれている。
独立宣言、フランス同盟条約、パリ条約、合衆国憲法の4つの文書に署名したのは、建国の父の中で唯一フランクリンだけである。
独立宣言、フランス同盟条約、パリ条約、合衆国憲法の4つの文書に署名したのは、建国の父の中で唯一フランクリンだけである。
フランクリンは1790年4月17日、84歳で死去したが、彼の死はアメリカだけでなく、フランスにおいても深く惜しまれた。フィラデルフィアでの葬儀には2万人が参列した。
『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。
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