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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー両大陸の英雄・ラ=ファイエット

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ラ=ファイエット

 ラ=ファイエットは1757年9月6日、オーベルニュ地方のシャヴァニアック城で富裕な名門貴族の家に生まれた。本名はマリー=ジョゼフ=ポール=イヴ=ロシュ=ジルベール=デュ=モティエで、ラ=ファイエットは侯爵名である。

 ラ=ファイエットの先祖は代々軍人で戦死が多く、彼の父も彼が2歳の時七年戦争に従軍し、先祖たちと同様に戦死した。ラ=ファイエットがアメリカ独立戦争に身を投じることになったのは、父親がイギリスとの戦いで戦死したことによる反英感情もあったようだ。

 父と同じ道を選んだ彼は、14歳で軍隊に入隊。16歳で2歳年下のノアイユ公の娘と結婚し、若い廷臣たちの仲間入りをしたが、やがて宮廷生活になじまないものを感じ、軍人としての栄誉を求めるようになった。

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フランクリン

 若い貴族ラ=ファイエット侯爵は、ブルボン朝フランスの膠着した社会を改革することを夢見ていた。

 そこに1775年、アメリカ独立戦争が始まった。支援を求めて来仏したフランクリンに会って、その考えに共鳴したラ=ファイエットは周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、1777年12月スペインのパサヘス港から出航、義勇兵としてアメリカに渡った。19歳の時のことである。

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ワシントン邸を訪ねたラ=ファイエット

 ラ=ファイエットは1777年7月27日、フィラデルフィアに到着し、7月31日アメリカ大陸会議によって陸軍少将に任命され、独立戦争の渦中に立った。初めは指揮権も手当も与えられない一人の義勇兵として戦うことを求められたが、1777年9月11日、初戦であるブランディワインの戦いで功を立て、これにより一部隊の指揮権を与えられた。ラ=ファイエットはワシントン将軍の家族の一員として迎えられ、以後ワシントンを養父と呼び、終生変わらぬ尊敬を捧げたのである。

 ラ=ファイエットのアメリカでの活躍ぶりは、祖国で彼の人気を高め、フランスにおける親米感情の高揚と米仏同盟の締結に寄与した。

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ヨークタウンの戦いで降伏するコンウォリス将軍

 1779年に一旦帰国したラ=ファイエットは、1780年、援軍派遣の知らせを持って帆船「エルミオンヌ号」でアメリカに戻った。ラ=ファイエットは1781年4月からヴァージニア軍を指揮し、米・仏陸海軍の合同作戦に参加、イギリス軍をヨークタウンに封じ込めた。艦隊からの補給路を断たれたイギリス軍のコンウォリス将軍は同年10月19日に降伏した。

 翌年、帰国したラ=ファイエットは「新大陸の英雄」と称えられ、フランスの陸軍少将に昇進した。
 
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フランス人権宣言

 1784年以後、ラ=ファイエットはフランスの社会・政治改革に身を投じた。1789年5月、三部会の第二身分(貴族)の代表として選出された。アメリカ独立戦争を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主政に変革すべきだという信念を持ち、第二身分でありながら第三身分(平民)の側に立って議会政治の実現に向けて行動した。

 1789年7月9日、憲法制定国民議会が成立すると、7月11日、アメリカ独立宣言をモデルとする「人権宣言」の第1次草案を提出し、2日後、議会の副議長に選出された。「人権宣言」は、正式には「人間と市民の権利の宣言」と言い、8月26日に憲法制定国民議会によって採択された。

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フランス国旗(トリコロール)

 ラ=ファイエットはバスティーユ牢獄襲撃の翌7月15日にパリ市民軍の総司令官となった。彼はこの軍隊を精悦な国民衛兵軍として組織し、軍の帽章に赤、白、青の三色を採用した。これが現在のフランス国旗となった。青と赤はパリ市の標章として用いられていたものであり、白はブルボン家の象徴である白百合に由来する。したがって、この時点では王政が倒されることはなかった。

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ヴェルサイユ行進

 革命勃発当時のフランスでは、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんでいた。庶民の生活が窮乏する中にあっても、ヴェルサイユ宮殿では豪奢な宴が催された。更にその席上、近衛兵が国王ルイ16世の面前で三色帽章を踏みにじった。革命の否定を示すこの報が伝わると、民衆の間に怒りが広がった。

 10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始。ラ=ファイエットの率いる2万の市民軍が後を追った。降りしきる雨の中、約20kmの道のりを6時間かけて行進してヴェルサイユ宮殿に到着した。各々が武器を取り、大砲まで持ち出して行進したといわれる。

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バルコニーに立つルイ14世と王妃

  狩りを好んで行った国王はこの日も狩りに出ており、民衆は更に4時間近くの待機を強いられた。狩りから戻った国王は宮殿に集った大勢の民衆に恐れをなし、パンの配給を表明した。これにより民衆の興奮は幾分治まったが、王妃マリ=アントワネットが放った「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃないの」の一言が、民衆を激怒させたと言われている。

  翌6日未明、武装した市民の一部が宮殿に雪崩れ込んで略奪を行うと共に、国王を拘束した。民衆は国王に対しパリへの帰還を迫り、その日の午後に国王一家をパリに連行した。

 国王と議会がパリに移ると、ラ=ファイエットは国王によりパリの国民衛兵軍およびパリ正規軍の指揮官に任命された。続く2年間、彼は公共の秩序維持に努め、穏健派の指導者として国民議会で強い発言権を持った。彼はその時、フランスで国王に次ぐ人気と勢力を誇る人物となっていたのである。

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ジェファソン

 第3代アメリカ大統領となったジェファソンは、独立戦争を通じてラ=ファイエットを良く知っており、「ラ=ファイエットの弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評している。

 「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したといわれている。

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8月10日事件

 1790年7月14日、バスティーユ襲撃1周年を記念した武装市民集会で、ラ=ファイエットは「国と法と国王」に対する忠誠の宣言を行ったが、これが彼の人気と政治力の頂点であった。やがて議会内での彼の立場は、王党派からは革命派として、また急進派からは穏健派として攻撃されるようになり、1791年10月、立法議会が成立すると、革命は終わったと判断してオーベルニュに隠退した。

 しかし、1792年4月、ジロンド派内閣が対オーストリア開戦に踏み切ると、ラ=ファイエットは国民軍総司令官として国王に呼び戻され、、オーストリア・プロイセンの連合軍と戦う前線に向かったが、各地の敗戦を聞いて進軍中止を命じた。

 「8月10日事件」が起き、パリで国王が捕らえられ、王権が停止された。その知らせを聞くと、鎮圧して国王を救出しようとしたが、時すでに遅く、ラ=ファイエットはパリに戻ることをあきらめ、国境を越えてオーストリアに亡命しようとして、投降した。しかしオーストリア軍は「立憲王政」と「共和政」の違いを理解できず、彼を革命の首魁として捕らえ、以後9月18日から5年間牢獄に繋いでしまった。

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ブリュメール18日のクーデタ

 1799年、ナポレオンがブリュメール18日のクーデタで権力を握ると、ラ=ファイエットは帰国し、当初は協力した。しかしナポレオンが皇帝に就任することに反対して遠ざかり第一帝政から離れた。

 さらにナポレオンが没落し、ブルボン朝の復古王政になっても協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在し続けた。1830年に復古王政が倒された七月革命が起きると、再び政治の表舞台に復帰し、パリ国民軍司令官となった。しかし、まもなく1834年5月20日に77歳で没した。史上希にみる息の長い革命家であった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/18 05:18 】

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