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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世①

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ルイ16世 

 1754年8月23日、ルイ16世はルイ15世の長男ルイ=フェルディナント王太子の3男として誕生した。兄が夭折し、1765年に父の死により10歳で王太子となった。

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マリ=アントワネット

 1748年、オーストリア継承戦争に敗北したマリア=テレジアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようと、宿敵であるブルボン家との政略結婚の話を進めた。その結果、紆余曲折はあったものの、マリア=テレジアの末娘のマリ=アントワネット(ドイツ語名はマリア=アントーニア)がフランス王太子のもとに嫁ぐことになった。

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ルイとマリの結婚式

 1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で豪華絢爛な二人の結婚式が挙行された。ルイは15歳、マリは14歳であった。その4年後の1774年5月16日、ルイは祖父ルイ15世の死によりルイ16世として即位した。


 1777年4月、なかなか子供が生まれず性生活を疑ったマリア=テレジアが、マリの長兄ヨーゼフ2世が若い夫妻の元に遣わされた。夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。また、若くして結婚したため、子作りの方法を知らなかった国王夫妻は、ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられたという。その甲斐あって結婚7年目の1778年には長女マリ=テレーズ、1781年長男ルイ=ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ=シャルル(後のルイ17世)、1786年次女ソフィー(夭折)が誕生する。

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三部会開催 1789.5.5

 即位後まもなく起きたアメリカ独立戦争に介入したため、フランスの財政は危機に瀕し、アンシャン=レジームは(旧制度)は完全に行き詰まった。1780年代のフランスの財政赤字は45億リーブル、当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9年分の赤字を抱えていたことになる。ルイ16世はテュルゴー、ネッケルらの重農主義者として知られた人物を相次いで財務長官(当時は事実上の宰相)に任命して改革への出口を求めたが、生来、優柔不断のため、特権にあぐらをかく貴族の反対を受けると二人を罷免するなど首尾一貫しなかった。

 1788年に財務長官に再任されたネッケルが貴族への課税案を提出すると、反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会をヴェルサイユに招集した。

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バスティーユ牢獄襲撃事件

 しかし、ここでも傍観者的態度をとる一方、第三身分の勢力が台頭してくると、その弾圧に踏み切り、事態を悪化させて、1789年7月14日、パリ市民によるバスティーユ牢獄襲撃を招き、フランス革命の火はやがて全国に広がった。ルイ16世は、ことの重大さを、14日にはまだ十分につかんではいなかったようだ。これについては、よく二つのエピソードがひかれてきた。

 夜半に侍従のリアンクール公に起こされたルイ16世は、パリの状況を聞かされて、尋ねた。「なに、暴動か」。リアンクール公は答えた。「いえ陛下、革命でございます」と。

 しかし、ルイ16世はパリの状況を知った国民議会の代表から、すでに夕刻に報告を受けていたのだから、会話の場面は正しくない。この話は、状況を正しく革命と捉えていたリアンクール公の慧眼を褒め称えるためか、あるいは、ルイ16世の政治感覚の鈍さを笑うための話として流布されてきたのである。

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ルイ16世のメモ

 もう一つのエピソードは、もっとルイ16世をこきおろす内容だ。

 ルイ16世には、日々の細かなことを手帳に記すメモ魔のところがあった。そのメモの7月14日の欄には、「リアン」とそっけなく書かれている。つまり、あれだけの出来事が生じた日について「何もなし」というわけだ。このエピソードの指摘には、なんと馬鹿な、という、苦々しい感情がともなわれているのが一般的である。

 しかしこれも、解釈としてはもう少しデリケートでありたい。「リアン」とメモされているのはその通りだが、この表現は、狩り好きのルイ16世が、ほとんど毎日のように行っていた狩猟の獲物について記すためのものだったからである。


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国王一家はテュイルリー宮殿に移される

 バスティーユ牢獄襲撃事件以後、事態は息もつかせぬ感じでめまぐるしく展開した。8月4日夜には封建的特権の廃止が宣言され、8月26日には「人権宣言」も公布された。10月5日、女性を中心とするパリ市民がヴェルサイユ宮殿に押しかけ、国王にパリへの帰還を要求するとあっさりこれを受け入れ、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移った。

 1790年7月14日に、ルイ16世は「革命記念祭」に出席し、民衆は「国王万歳」を叫んだ。国民議会は改革事業を進め、立憲君主政に基づく憲法も作られつつあった。そのまま行けば決して断頭台に登ることはなかったのだが、1791年4月2日、ルイ16世の運命を大きく変える出来事が起きた。ミラボーの死である。

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ミラボー 

 ミラボーはその巨体と長い髪の鬘、天然痘のあばた顔で目立っていたらしい。美男子ではなかったが、女性とのスキャンダルが絶えなかった。ミラボーは第三身分代表として選出されたが、もとは伯爵家の出で貴族だった。しかし父親に反発して無軌道な生活に入り、怒った父から廃嫡され、おまけに王に働きかけた父によって投獄されてしまった。各地で獄中生活を味わい、出獄後も駆け落ちしたりという波乱の人生を歩んだ。そんなことから貴族としては立候補できず、平民として立候補、持ち前の弁舌で当選してしまった。三部会議員となってからは、球戯場の誓いや国民公会で活躍し、「革命のライオン」と言われ、雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があった。

 ミラボーは立憲君主主義者で王政変革の意志はなく、議会派と国王の融合に尽力し、やがて宮廷に革命派の内情を通報して財政援助を受けるようになり、王妃マリ=アントワネットとの愛人関係も取り沙汰されるようになった。

 ミラボーは青年時代の放蕩生活と議会での激務で病を得、4月2日に42歳で急逝した。毒殺の噂があったが、実際には化膿性心膜炎または当時は診断も治療も不可能であった虫垂炎と思われる。「私の死はフランス王政の崩壊だ」が臨終の言葉であった。

 ミラボーという強力な王政護持論者の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。革命の進展に対する不安に駆り立てられたルイ16世と王妃マリ=アントワネットが事件を起こすことになる。

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パンテオン
 
 国民の深い哀悼のうちに、ミラボーの遺体はパンテオンに葬られた。しかし、「八月十日事件」のおり、ルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在実証する書類がテュイルリー宮殿から発見され、名声は地に落ちることになり、国民公会の命令で遺体はパンテオンから除去された。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/22 05:28 】

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