fc2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世②

mari-anntowanetto-kekkonn00_convert_20200728114028.jpg 
ルイ16世とマリ=アントワネット

 1791年4月2日のミラボーの急死の頃より国王の逃亡は、民衆に警戒されており、4月18日に国王がパリ郊外のサンクルー離宮で復活祭を過ごすと称して出発しようとした時、その馬車は群衆と国民衛兵のために阻止された。

 これにより国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。最初乗り気でなかったルイ16世も真剣に逃亡計画に耳を傾けるようになった。

2efbc930563512165cb21d3ea5d2ceb4_convert_20200728115342.jpg 
レオポルド2世

 王妃の実家オーストリアに逃亡する計画が立てられたが、王妃が主導したために、いくつもの問題が生じた。ます計画の中心人物が王妃の愛人であるスウェーデン貴族のフェルセンであり、ルイ16世の臣下ではなかった。

  また王妃の無理な主張にも振り回され、馬車は8頭立てのベルリン型の大型馬車の新品とすることになって、内装を特注し、さらに美しい服を新調したことなどによって、宮殿脱出は当初の予定より1カ月以上も遅れることになった。

 6月6日に王妃は兄のオーストリア皇帝レオポルド2世と連絡して国境に1万5000の軍隊を待機させ、20日夜、フェルセンが手引きして、国王一家は大型馬車で、サン=マルタン門からパリを出た。

 6月21日朝7時、テュイルリー宮殿の国王の寝室が、もぬけの殻なのが発見された。王妃や王子もいない。ただちにラ=ファイエットらが対応に動いた。彼らには、国王逃亡計画があるという情報は事前に流れていたらしいが、詳しいことはわからない。国民議会にとっては、立憲王政の憲法がまとまりかかっていた時期だ。国王が亡命したということになれば、すべてが再び混乱するのは目にみえていた。

20101206_1539157_convert_20120524213345_convert_20200728114103.jpg 
大型馬車で逃亡する国王一家

 国王一家を乗せた馬車はマルヌ川に沿ってひたすら東に走り、シャロンまでは無事にきた。しかし、その先では、国王を迎える手筈だった護衛の兵士たちが、不審の目を引いていた。見とがめた農民たちは、それが領主の逆襲ではないかと疑い、こぜりあいが起こる。護衛はそれ以上目立つのを恐れ、撤退した。

_convert_20200728134603.jpg 
捕まって悲嘆にくれる王妃

 国王一行は、途中で道草などを食っていささか緊張感に欠けていたが、迎えて護衛がいないのに不安を覚え、先を急いだ。偽りの旅券を持つ一行が国境の連絡地まで近づいた時、かつてヴェルサイユ宮殿の番兵をしていた駅伝頭に見破られ、間道を行った彼はヴァレンヌの町に連絡して国王を待ち伏せして捕らえた。21日夜、10時半過ぎであった。

16荳棒convert_20200728134202 
パリに帰還するルイ16世

 翌22日、国王逮捕の報せを受けた国民議会は、国王をパリに連れ戻すためにバルナーヴら3人の使節を派遣した。国王一行がパリに戻ったのは、25日だった。

 国王逃亡の情報は、21日から各地に伝わった。反応は当然ながら、国王に対してきついものであった。ある国民衛兵は「われわれに国王がいたなんて忘れよう」と叫んだ。ロベスピエールは「国王は、王国筆頭の公務員として、法に従わねばならない」として、国王の裁判を求めた。


eada91446352925bd984b2fd074422a6_6171062b1a79c2cf6d25217c51bfd96e_convert_20200728134234.png 
嘲笑される国王一家

 上は「小屋に連れ戻される豚の家族」と題する作者不詳の絵だが、ヴァレンヌ逃亡事件から国王に対する評判が、動物に擬して描かれることが流行った。ほんとうの豚には気の毒なことだが、「ぶた」というのはフランスでも相手を馬鹿にする罵り言葉であるからだろう、ルイ16世はしばしば豚として愚弄されている。それまではまだ信望をつないでいた国王の評判は、民衆の間でも地に堕ちたのである。

cc0d82053ca919ff74b6c6f4ee8eb58a_convert_20200728143903.jpg 
シャン=ド=マルスの虐殺

 国王の帰還後民衆は国王の廃位を要求したが、議会は国王の無実を宣言した。そこで、コルドリエ=クラブ、ジャコバン=クラブが中心となり共和政樹立の請願運動を起こし、これに反対のジャコバン右派(ラ=ファイエットら)は分裂してフイヤン派をつくった。

 7月17日民衆がシャン=ド=マルス広場の陳情大会に集まった時、ラ=ファイエット指揮の国民衛兵はそれに発砲して弾圧した。治安維持の法律が公布され、民主主義者と共和主義者は逮捕された。ダントンはイギリスに亡命、マラーは地下にもぐり、ただロベスピエールほか、数人の代議員のみが残った。

Jacques_Bertaux_-_Prise_du_palais_des_Tuileries_-_1793_convert_20200728143547.jpg 
八月十日事件

 1792年4月20日、ジロンド派内閣はプロイセン・オーストリアに宣戦布告した。開戦以来、主戦場の東北戦線は、貴族出身の将軍連のサボタージュによって敗退を続け、パリでの諸党派の闘争は激化した。7月、立法議会は祖国の危機を宣言し、地方からの義勇軍は続々パリに集結した。ジャコバン派は義勇軍と提携をはかった。

 7月30日にはマルセイユの義勇軍が到着した。8月1日の対仏連合軍司令官ブルンスウィク公の「フランス王に危害を加える者は銃殺し、報復としてパリを焼き払う。連合軍の目的は王の救出である」という宣言は、王室と敵との通牒と信じられた。

 9日夜、警鐘の乱打でパリ民衆と義勇軍の武装蜂起が開始され、10日、テュイルリー宮殿は占領され、国王一家はタンプル塔に幽閉され、王権は停止された。またしても、民衆の運動が革命の新たな展開を促したのであった。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/25 05:17 】

ヨーロッパ近代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世③ | ホーム | 世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世① >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |