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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世③

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ルイ16世(ルイ=カペー)

 幽閉されたルイ16世は家族との面会もかなわず、名前もルイ=カペーと呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。

 1792年12月11日から始まった国民公会の法廷でのルイ=カペーの裁判は、ジロンド派と山岳派(いわゆるジャコバン派)の間ではげしく議論された。ジロンド派は処刑による外国の感情悪化を恐れ、まだ外交上の手札とできると考えて処刑に反対した。それに対して山岳派は、共和政・人民主権の立場から国王処刑を主張した。

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サン=ジュスト

 弱冠25歳の山岳派サン=ジュストは「人は罪なきものとして王たりえない」つまり、王であること自体が悪であると主張し、「この男は、王として統治すべきか、それとも死なねばならない」と断じた。ロベスピエールはルイは裁判の対象にさえならない、共和政の樹立されたことは王の存在は許されないとして「祖国は生存すべきものだから、ルイは死すべきである」と述べた。

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最後の証言に立つルイ16世

  1793年1月14日、各議員が登壇して意見を述べるという形式で最終決定が行われた。ルイの有罪は全員一致で認められ、人民への上訴は否決された。

 16日夜、その刑罰を決める投票が始まり、24時間続いた。721人の議員のうち、死刑賛成387、反対334となった。賛成者の中の26名は、執行猶予について検討すべきと言う条件を付けた。この26票を反対側に数えると、361対360の1票差となる。そこで執行猶予についての投票が18日に行われた結果、380対310で否決され、死刑は確定した。

 タンプル塔に幽閉されていたルイ16世に判決が伝えられた。処刑は、21日朝、革命広場で。現在のコンコルド広場、革命以前はルイ15世広場である。ルイ16世がまだ即位する前、マリ=アントワネットとの婚礼の馬車が民衆の歓呼に包まれて通過したのも、この広場であった。その時、近い未来に同じ広場で断頭台の露と消えようとは、本人ならずとも誰が想像できたでであろうか。

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処刑される直前のルイ16世

 1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ=サンソンの執行によりギロチンで斬首刑にされた。これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人だった。

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ギヨタン

 ところで、断頭台のことをギロチンと呼ぶが、これは発案者であるギヨタンに由来している。ギヨタンは初審裁判所の検察官の息子で、サントに生まれ、イエズス会修道士から初等教育を受けた。聖職に就くつもりでボルドーの修道院に入ったが、まもなく神学を捨てて文学修士の予備学位を取り、続いて医学博士号を取った。1789年にはパリの医師会の理事であり、首都におけるもっとも繁昌し、治療費の高い医者となっていた。

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ギロチン


 ギヨタン はフランス革命がはじまって発足した国民議会(憲法制定議会)の議員であった。人権宣言が発布されたことを受け、それまで貴族は斬首、平民は縛り首というように身分によって異なっていた処刑方法を平等にし、あわせて苦痛を伴わず、迅速に処刑できる方法の採用を訴え、新しい断頭施設を考案した。

 1792年に立法議会はその処刑法を採用、広く行われるようになり、人々は、この処刑具を「ギヨタンの子供」と言ったような意味でギヨティーヌ(その英語発音がギロチン)と呼ぶようになった。ギヨタンはこの断頭台をギロチンと呼ぶことに再三異議を申し立てたが、結局聞き届けられず、自ら改姓することで諦めた。

 ギロチンによる死刑の執行は、フランス以外でも行われるようになり、さらにフランスでは革命後もギロチンによる公開処刑が続いた。次第にその残忍さが認識されるようになり、公開処刑は行われなくなったが、フランスでは非公開のギロチンによる処刑は、1970年まで行われており、1981年の死刑廃止まで存在した。

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斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首

 大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。

 朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。

 王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」
という、フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。

 処刑されたルイ16世の首が掲げられると、革命広場につめかけていた群衆から「国民万歳」の叫びがいっせいにあがった。

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サン=ドニ大聖堂のルイ16世の慰霊碑

  遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。

 発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その22回目の命日である1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー=アントワネットと共に改葬された。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/09/29 05:26 】

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