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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー清廉の士・ロベスピエール

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ロベスピエール

 ロベスピエールは1758年5月6日、弁護士の長男として、フランス北部のアルトア州アラスに生まれた。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境が動揺するが、母方の祖父母に育てられた。リセ=ルイ=ル=グランの奨学金を得て1780年に大学に進んだが、天才的な頭脳を持つ学生で、翌年にはすでに法学修士号を得、アラスに帰って弁護士となった。

 1788年6月に全国三部会招集が布告されると、選挙制度改革を求めた「アルトア州民に訴える」と題する文章を発表し、1789年5月、第三身分の代議員として全国三部会に選出された

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球戯場の誓い

 1789年5月5日、三部会が開催されたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立した。6月20日、第三身分の議員たちは自分たちが真の国民を代表する国民議会であると宣言し、ヴェルサイユ宮殿の室内球戯場で「憲法制定までは解散しない」ことを誓ったが、ロベスピエールもこれに参加している(前列右から5人目の黄色い服の男)。

 憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説能力を高め、リベラル政治家として活躍をみせた。


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ルソー

 1789年8月26日、人権宣言が発せられると、ルソーを崇拝するロベスピエールはこれを歓迎した。また、1791年5月には新しく設けられる立法議会への現職議員の再選禁止を提案し、可決に持ち込んだ。同年6月のヴァレンヌ逃亡事件後、ロベスピエールは国王裁判を要求したが失敗した。

 1791年9月30日、91年憲法の成立により憲法制定議会が解散された。これは、フイヤン派にとっては革命の終了を意味したが、彼はこの席で「私は革命終われりと信じるものではない」と演説している。その直後、パリ民衆は彼に「清廉の士」という渾名をつけて、熱狂的な歓迎ぶりを示した。

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屋内馬術練習場に置かれた立法議会

 1791年10月1日、立法議会が成立したが、ロベスピエールの提案で現職議員の再選が禁止されたので、745名の議員はほぼ全員が新人議員という経験に乏しい議会となった。これが混乱の大きな原因となり、立法議会は1年も続かずに短命に終わってしまう。

 立法議会の成立によりロベスピエールは一時下野したが、八月十日事件以後は山岳派(いわゆるジャコバン派)を指導して政局を掌握し、1792年9月5日、国民公会選挙でパリ市内の選挙区から立候補してトップ当選を果たした。

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国王裁判

 1792年9月20日に国民公会が招集されると、山岳派を率いるロベスピエールは多数派のジロンド派により「独裁をめざす党派の首領」として告発され、12月に始まった国王裁判は両者の戦いを激化させた。この裁判中、ロベスピエールは、「祖国が生きるためには、ルイ16世が死ななければならない」と宣言して、国王と王妃の死刑を求めた。

 1793年1月21日の国王の処刑は、ジロンド派と山岳派の戦いに決着をつけるにいたらず、この間、食糧不足と物価の高騰は、民衆の間にさらに革命感情を育てつつあった。1793年6月2日、ロベスピエールは、パリ民衆の蜂起を背景に、ジロンド派の指導者追放に成功し、山岳派が権力を握った。

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エベール

 1793年7月27日から公安委員会のメンバーに加わったロベスピエールは、王党派や反革命派の策謀や外国の干渉という革命の危機から革命を防衛するためとして、厳しく反対派を粛清した。同じ山岳派に対しても容赦なく、1794年3月24日には貧しい人々を欺いて利益を得たという理由で、エベール派19名が処刑された。

 エベールは美貌と巧みな演説で女性にもてた革命家で、革命理念を徹底するために、神にかわる理性崇拝を進めるなど、急進的な主張を展開した。

 エベール派粛清の後、ロベスピエールは民衆の支持を得るために、反革命容疑者の財産を没収して貧しい人々に分配するという「バントーズ(風月)法」を定めた。

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ダントン

 最後にロベスピエールは、平和を求め、恐怖政治の緩和を唱える寛容派に攻撃の矛先を向け、この派の一員であったダントンとデムーランを4月5日にギロチンに送った。

 ダントンは裁判で持ち前の雄弁をふるい、判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり、結局死刑の判決を受けた。ギロチンへの道すがらロベスピエールの下宿の前を通りかかると、「ロベスピエール、次ぎはお前の番だ!」と叫び、最後まで堂々とした態度で処刑された。享年34歳。最後の言葉は、「俺の頭を後で民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」であった。

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最高存在の祭典

 1794年6月8日、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して「最高存在の祭典」を挙行するなど、革命政府の中核的存在になった。6月10日、革命裁判を再編成してスピードアップさせるという法案がロベスピエールによって提案され、可決された。これにより審理を経ない略式判決が許されたため、恐怖政治が最高潮に達した。

 パリで革命裁判所が仕事を始めた1793年4月から1794年6月10日までに、1251名が処刑されたのに対し、6月11日から7月27日、つまりテルミドール9日までのわずか47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだのだった。

 現在の研究では、恐怖政治のために反革命容疑で拘束された者は全国で約50万人、死刑の宣告を受けて処刑された者が約1万6000人、それに内戦地域で判決なしに殺された者の数を含めれば約4万人にものぼる。と見積もられている。

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国民公会でのロベスピエールの打倒

 この頃、すでに過労がロベスピエールの健康をむしばんでいた。彼は次第に短気になり孤立していった。また、容赦のない弾圧への反発が強まり、国民公会での彼の立場は悪化してゆく。同時に彼は、フランス革命戦争の勝利にもかかわらずいつまでも続く生活難のために、民衆の支持をも失い始めていた。

 こうしてテルミドール9日がやってくる。共和暦の熱月、1794年7月27日、公民公会はロベスピエールとその弟、そしてサン=ジュスト、クートン、ルバの計5名のロベスピエール派議員逮捕を決議した。5名は保安委員会へ連行され、市内の監獄に分散留置された。

 この国民公会での最後の一撃は、むしろロベスピエール派の動きから始まった。前日の26日、ロベスピエールは久しぶりに議場に姿を現し、彼をとりまく陰謀を告発し、「裏切り者」の逮捕と公安委員会、保安委員会の粛清を要求する。うまくロベスピエール派のペースになるかと思われた時、左右両派からロベスピエール攻撃の狼煙があがった。
 「国民公会の意志を麻痺させた男はただ一人。その男、それはロベスピエールだ」
 こう発言したのは、ダントンに近かった議員のカンボン。彼は財政の責任を問われて、ロベスピエールから攻撃されているのが明らかだった。敗ければギロチンが待っている。公安委員会左派のビヨ=ヴァレンヌが続く。
 「仮面を剥がさねばならぬ。わたしの屍が権力の亡者の王座になるくらいなら、沈黙したまま、奴の言う大罪の共犯でいたほうがましだ」

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演壇を占領し弾劾を続けるテルミドール派

 自分がやられるか、相手が倒されるか。妥協の余地すらみえない亀裂が広がっていた。

 議会は紛糾したまま翌日に持ち越された。左右の反ロベスピエール派議員は一致して、サン=ジュストやロベスピエールの発言を怒号で妨げる。まず国民衛兵司令官のアンリオと、革命裁判所長デュマの逮捕が決定された。ロベスピエールをからめ手から武装解除しよう、というねらいだ。ついで決定されたのが、5名の議員の逮捕拘留であった。

 国民公会の文句なしの勝利、と思われた。しかし、市内の監獄に分散留置されたロベスピエールたちは、パリのコミューンによって釈放され、市庁舎に迎えられた。パリの市議会はロベスピエール派が掌握していたからである。ロベスピエールも、リュクサンブールの監獄から市庁舎に到着した。全員がそろった時には、夜の11時になっていただろうか。

 もしこの時、彼らが国民衛兵を動員して、ただちに武装攻撃を国民公会にかけていたとすれば、事態はまた変わっていたかも知れない。しかし、ロベスピエールには、あくまで自分を蜂起の側に置くことはためらわれたようだ。

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 ロベスピエールの逮捕

 国民公会はロベスピエール派議員5名の釈放を知ると、彼らを法の保護からはずす決定をした。非合法化したのである。コミューンが動員した国民衛兵は、夜の7時ごろには3000人もいたとみられていが、る指令が出ぬまま、午前1時すぎまでにはみなグレーヴ広場をあとにした。雨が降り始めていた。その直後、午前2時すぎのことだった。国民公会側の武装衛兵が、大砲を曳いて市庁舎を制圧しに来たのは。

 制圧はほとんど無抵抗だった。ルバがピストルで自殺。ロベスピエールも自殺しようとしたが、顎を砕いただけで、失敗。血まみれの彼をはじめ、全員が逮捕された。

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ロベスピエールの処刑

 7月28日の朝があけ、革命裁判所では、22名のロベスピエール派の人物確認のみがなされた。その日の午後7時、夏の日がまだ暮れないなか、22名の処刑が行われた。ついにロベスピエールは倒され、恐怖政治に終止符が打たれた。

 ロベスピエールは秩序と道徳を重んじ、私生活はいたって質素であった。テルミドールのクーデタで処刑された時には、下宿していたデュプレ家に借金が残っていたとも言われる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/02 05:19 】

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