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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーラパイヨネ(鼻先の藁)から若き英雄に・ナポレオン①

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ナポレオン=ボナパルト

 ナポレオンは1769年8月15日、コルシカ島のアジャクシオに生まれた。カルロ=ブナオパルテと妻レティツィア=ラモリノの間の12人の子供のうち第4子として生まれた。ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカナ州に機嫌を持つ、古い血統貴族であった。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り16世紀頃に土着した。

 ナポレオンの出生時の洗礼名はナポリオーネ=ブオナパルテであったが、1794年頃よりフランス風のナポレオン=ボナパルトに改名している。ちなみに、ナポレオンは「荒野のライオン」の意味である。

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コルシカ島

 コルシカ、四国の半分ほどもない地中海のこの小島は、ヨーロッパの政治情勢の変化に従ってめまぐるしく支配者が変わった。ルソーが『社会契約論』(1762年)に、「いつかこの小島がヨーロッパを驚嘆させるであろう」という予言的な一節を書き加えた時、コルシカの住民はジェノヴァ共和国に対する勇敢な独立運動を戦っていた。だが、独立運動に手を焼いたジェノヴァの元老院は、1768年にこの島をフランスに売り渡し、パスカル=パオリを首領とするコルシカ独立運動は、1769年、ちょうどナポレオンが生まれた年にフランスの軍隊に決定的敗北をこうむって解体する。

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父カルロ=ブナオパルテ

 ナポレオンの父カルロ=ブナオパルテはパオリとともに戦った有力な仲間の一人で、パリオは少年時代のナポレオンの理想像であった。だが、独立運動の崩壊後、パオリがイギリスの援助を求めたの対し、カルロはフランス側に接近した。

 1778年、一家の期待をになったナポレオンは、兄ジョゼフとともに9歳でフランスに送られ、一人の異邦人として旧制度下の兵学校で学ぶことになる。ナポレオンははじめ修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。

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フランス砲兵隊

 1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。

 幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。学校ではコルシカなまりを馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネとあだ名された。ラパイヨネは「鼻先にぶら下がった藁」、つまり「田舎者」という意味である。

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 パスカル=パオリ

 1789年、革命が勃発した時、ボナパルト中尉はフランスの職業軍人というよりは、外国人の傭兵として、冷ややかな目で事件を眺めている。ナポレオンにとっては、フランス革命よりもコルシカの独立の方が重要な関心事であった。

 しかしながら、ルソー、ヴォルテールなどを乱読し、18世紀啓蒙哲学の強い影響を受けていたナポレオンは、革命の進行とともに自己を革命の側に位置づけ、1791年にはジャコバン=クラブに加入した。こうしたナポレオンの政治的立場は、反革命の側のパオリとの決定的な対立をもたらし、パオリがボナパルト家に「永久の呪いと汚名」をきせたため、1793年6月ナポレオンの一家はフランスへの移住を余儀なくされた。

 
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ロベスピエールの逮捕

 1793年8月、イギリスの援軍を得た王党派がトゥーロンを占領。ナポレオンは国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され、間断ない攻撃でイギリス軍を悩ませ、12月19日ついにトゥーロンに入城した。この包囲戦で認められてわずか24歳で准将に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭りあげられた。

 しかし、1794年7月27日(テルミドール9日)、山岳派を率いるロベスピエールがクーデタにより処刑されると、ナポレオンはロベスピエール派とみなされ、8月6日に陰謀と叛逆の嫌疑で逮捕された。9月14日に釈放されたが部隊には復帰しなかった。その後も、彼の強い野心と山岳派との関係を懸念されて、満足すべき司令官の地位に就くことができなかった。


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バラス

 ナポレオンがテルミドールのクーデタの際に問題視されたのは、トゥーロン解放の際の活躍でロベスピエールの弟オーギュスタンに注目されて、ロベスピエール派に近づいたからである。しかし、トゥーロンでナポレオンに注目したのは、オーギュスタンだけではなかった。

 その敵テルミドール右派として、総裁の一人となるバラスもまたその一人だった。これが1795年ヴァンデミエールの王党派蜂鎮圧へのナポレオン起用につながったのだから、人生なにがどう作用するかわkらないものである。
 

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ヴァンデミエールの反乱

 革命暦4年ヴァンデミエール(葡萄月)13日(1795年10月5日)、ナポレオンは防衛作戦を指揮し大砲を配備して、国民公会に反対して行進する反乱軍の隊列に砲撃を加えた。首都の市街地で一般市民にも被害が及ぶ可能性があったが、この大胆な戦法により鎮圧に成功した。危機から国民公会を救ったため、ナポレオンは中将に昇進したが、政敵からは嘲笑されて「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれた。

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イタリア遠征

 1796年3月、総裁のバラスによりイタリア遠征軍司令官に任命されたナポレオンは、オーストリア軍に連戦連勝。総裁政府に断ることなくカンポ=フォルミの和約を結び、これにより第1回対仏大同盟は崩壊した。これにより5年間続いた戦争は収拾され、1797年12月パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

 イタリア遠征から凱旋した、わずか29歳の青年将軍ナポレオンは、1798年春、タレーランの示唆に従ってエジプト遠征を総裁政府に提唱した。これは「インドへの道」を断ち切り、イギリス経済に打撃を加えるためであったが、総裁政府としては民衆に人気のあるナポレオンを敬遠する意味もあった。

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ピラミッドの戦い

 1798年6月10日、マルタ島に上陸、マルタ騎士団団長ホンペッシュは降伏。フランス共和国に島を30万フランの年金と引換に譲渡。ナポレオンは人権宣言の原則を実施するため、そしてイスラーム諸国の受けを良くするため、マグレブ地方の2000人の奴隷を解放した。

 7月1日、アレクサンドリアに上陸して占領し、ピラミッドの戦いでオスマン帝国の太守の支配下にあるマムルークを主体としたオスマン軍を破り、カイロに入城した。決戦の時、ナポレオンは「見よ、ピラミッドの上から4000年の歴史が諸君を見下ろしている」と演説した、と言われる。

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ロゼッタ=ストーン

 1799年7月15日、エジプト遠征軍の参謀ブーシャールが、アレクサンドリア近郊のラーシードという町で兵士に堡塁の造築作業をさせていた時、兵士たちが大きな黒い玄武岩に古い絵文字がきざまれているのを発見した。ラーシードの町をヨーロッパ人はロゼッタとよんでいたので、この石はロゼッタ=ストーン と言われるようになった。言うまでもなく、この石を手がかりにフランスのシャンポリオンがヒエログリフ解読に成功する。

 エジプト遠征軍は、13隻の戦艦、7隻のフリゲート艦とコルヴェット艦、37隻の軽装艦、27隻の輸送船に5万4000の人員、1200頭の馬、171門の砲の他に、175名の学術調査団を乗せいていた。調査団は、さまざまな分野に及ぶ第一級の人物で構成されていた。その分野は、天文学、幾何学、化学、物理学、機会、建築、地理、造船、動物、植物、医学、薬学、美術、音楽、文学、経済、印刷に及び、専門のオリエント学者も含まれていた。この中には、初めて本格的にスエズ地峡を調査し、後にスエズ運河建設の技術責任者になる技師ルペールもいた。ナポレオンは、スエズ地峡に運河を建設することを考えており、実際そのための調査もオスマン軍との戦闘の合間を縫って行われ、ナポレオン自身が古代エジプト時代の運河の跡を発見したと言われている。ロゼッタ=ストーンを発見したのは一兵士であるが、それがヒエログリフの解読につながったのは偶然ではなかったのだ。

 ロゼッタ=ストーンは初めカイロのエジプト研究所-ナポレオンの遠征を期に設立された研究所-に入れられたが、1801年9月、アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したため、フランスが獲得したほかの古代エジプトの文化財ごとイギリスに引き渡され、ロンドンに送られ、現在では大英博物館の収蔵品となっている。だから、シャンポリオンの解読作業は 写本を使って行われた。


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アブキール湾の海戦

 カイロに入城したナポレオンであったが、その直後の1798年8月2日、アブキール湾でネルソンの率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受け、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。

 アブキール湾の海戦はナポレオンが不敗でないことをヨーロッパに示し、これを機に第2回対仏大同盟が結成され、フランス本国は危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。 将軍としてあるまじき行動である。

 エジプトに残されたフランス軍5万4000は炎天と疫病に苦しみ、1801年9月、アレクサンドリアでイギリスに降伏した。

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ブリュメール18日のクーデタ

 ナポレオンはイギリス軍の拿捕を逃れて、10月9日にフレジュスに上陸し、14日パリに到着した。フランス民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。

 ナポレオンと結託してクーデタの計画を練ったのが、新総裁の一人シエイエスであった。『第三身分とは何か』を革命の直前に出して、革命の陰の指導者であったシエイエスは、最後に革命の終焉を計画実行する。王政復古を防ぐには軍事独裁しかないとの確信からであった。

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第一統領ナポレオン

 クーデタはブリュメール(霜月)の18~19日(1799年11月9~10日)に実行された。総裁たちは辞任を迫られ、立法院議員は解散させられ、統領政府が新しく樹立された。ナポレオンと辞任した二人の元総裁シエイエスとロジェ=デュコの3人が統領となった。ナポレオンは第一統領となり、事実上フランスの支配者となった。

 もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあったのである。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/06 05:11 】

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