なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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統領政府の第一統領となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第2回対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は主なものが4つあったが、これらはすでに以前の戦役での侵攻作戦で使用していたため、3万7000の兵を率いるナポレオンはアルプス山脈をサン=ベルナール峠越えで北イタリアに入る奇襲策をとった。
ナポレオンは皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作させていた。上の「サン=ベルナール峠を越えるナポレオン」は ダヴィドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品である。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将ハンニバル、中世フランス王国のカール大帝に続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。
まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は主なものが4つあったが、これらはすでに以前の戦役での侵攻作戦で使用していたため、3万7000の兵を率いるナポレオンはアルプス山脈をサン=ベルナール峠越えで北イタリアに入る奇襲策をとった。
ナポレオンは皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作させていた。上の「サン=ベルナール峠を越えるナポレオン」は ダヴィドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品である。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将ハンニバル、中世フランス王国のカール大帝に続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。
「アルプスを越えるボナパルト」ポール=ドラローシュ画
ポール=ドラローシュの作品「アルプスを越えるボナパルト」では、防寒服に身をつつみ、寒さに耐えつつラバで峠を越えるナポレオンが描かれている。恐らくこれが実際の姿であったのだろうが、さっそうと愛馬にまたがり、先頭に立って軍を指揮している姿にかえることで、ダヴィドは救国の英雄としてのナポレオンのイメージを国民に伝えた。
ナポレオンは肖像画や記録を数多く残させ、それをプロパガンダの手段として有効に活用した。一介の軍人が短期間で皇帝に登りつめた背景には、こうしたメディア戦略もあった。
セント=バーナード
写真はアルプスの雪中遭難救助犬として知られるセント=バーナード。実はこの犬、17世紀中頃からサン=ベルナール峠にある修道院で飼われていたもので、20世紀初頭に至るまでに2500名もの遭難者を救助したそうだ。サン=ベルナールの英語読みがセント=バーナードだ。
サン=ベルナール峠を越えたナポレオン軍2万8000は、ジェノヴァを包囲していたオーストリア軍の背後に不意に姿を現し、1800年6月14日ジェノヴァの北にあるマレンゴで3万1000のオーストリア軍と激突した。ナポレオンが敵情を誤認し作戦指揮を誤ったため劣勢に陥ったが、ドゼー将軍の部隊が救援に駆け付け、フランス軍がからくも勝利した。フランス軍の辛勝であったが、ナポレオンは大勝利と喧伝し、その名を愛馬に与えた。
12月には、ドイツ方面でもフランス軍がオーストリア軍に大勝し、翌年2月にオーストリアは和約に応じてライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第2回対仏大同盟は崩壊する。
12月には、ドイツ方面でもフランス軍がオーストリア軍に大勝し、翌年2月にオーストリアは和約に応じてライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第2回対仏大同盟は崩壊する。
第2回次対仏大同盟の崩壊により、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
これにより、1792年より続いた戦争状態に終止符が打たれ、10年ぶりに全般的平和がヨーロッパに回復し、ナポレオンの名声はいやが上にも上昇した。
これにより、1792年より続いた戦争状態に終止符が打たれ、10年ぶりに全般的平和がヨーロッパに回復し、ナポレオンの名声はいやが上にも上昇した。
イギリスとの和平交渉と同時に、国民公会時代にキリスト教が廃止されて以来、敵対関係にあったカトリック教会とも和解の模索が続いていた。1801年7月、ついに和解の協約、コンコルダート(宗教協約)が結ばれることになる。フランスにおけるカトリック教会の復権が承認され、かわりに革命政府が没収した教会領などは返還しないことを確認した。これにより、信仰と農地の保障を与えられた農民たちはナポレオンに絶対的な信頼を寄せることになる。
統領制になったあと、護民院という立法議会に拠点をおいていた議員の抵抗も、院外に支持がない以上、ナポレオンには、ほとんど赤子の手をひねるようなものだった。1802年8月、国民投票によりナポレオンは終身統領となった。
統領制になったあと、護民院という立法議会に拠点をおいていた議員の抵抗も、院外に支持がない以上、ナポレオンには、ほとんど赤子の手をひねるようなものだった。1802年8月、国民投票によりナポレオンは終身統領となった。
ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月24日には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンガン公ルイ=アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。
ちょうど経済も安定を取り戻し、失業も少なく、パンの価格も落ち着いていた。ナポレオンは、王党派の策謀が革命の成果を脅かしている、と巧みに情報を流す。
「余の命を狙う多くの陰謀には、余はなんら恐れは感じない。だが、もし先般の陰謀が成功していたら、この偉大な民がおかれたであろう状況を考えると、余は深く耐え難い気持ちにとらわれざるをえないのだ」
ちょうど経済も安定を取り戻し、失業も少なく、パンの価格も落ち着いていた。ナポレオンは、王党派の策謀が革命の成果を脅かしている、と巧みに情報を流す。
「余の命を狙う多くの陰謀には、余はなんら恐れは感じない。だが、もし先般の陰謀が成功していたら、この偉大な民がおかれたであろう状況を考えると、余は深く耐え難い気持ちにとらわれざるをえないのだ」
こうして、世襲皇帝のみが革命の成果を護る力を持っている、という彼の主張が受け入れられていった。「共和国政府は、フランス人の皇帝、という称号をとる皇帝に委ねられる」。この称号をとるのは、ナポレオン=ボナパルトである。この皇帝位は、皇帝の直径子孫によって世襲される。1804年5月18日、ついに「世襲皇帝ナポレオン」が誕生した。
国民投票の結果は、賛成357万票余りに対して、反対票はわずか2567票。圧倒的多数で皇帝ナポレオンの誕生を歓迎した。旧王政を思わせる国王ではなしに、中世ヨーロッパの覇者シャルルマーニュ、つまりカール大帝を思わせる「皇帝」の称号があえてとられた。みずからのもとで革命フランスがヨーロッパを制圧する、というイメージが、ナポレオンにはあった。
国民投票の結果は、賛成357万票余りに対して、反対票はわずか2567票。圧倒的多数で皇帝ナポレオンの誕生を歓迎した。旧王政を思わせる国王ではなしに、中世ヨーロッパの覇者シャルルマーニュ、つまりカール大帝を思わせる「皇帝」の称号があえてとられた。みずからのもとで革命フランスがヨーロッパを制圧する、というイメージが、ナポレオンにはあった。
カール大帝がローマ教皇レオ3世によって戴冠されたように、戴冠の儀式が構想された。ときの教皇ピウス7世は、教会に有利な状況がつくれるかも知れない、という期待をもって、ローマからはるばるパリに来ることに同意した。
「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 」ダヴィド画
1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂をうめつくした政治家、外交官、市民たちの前で、教皇立ち会いのもと戴冠式が行われた。
しかし、戴冠は教皇の手によってではなく、ナポレオン自身の手によってなされた。突然の思いつきではない。 この行動には、ヨーロッパに自由の革命精神を根づかせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配のもとに教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる。ついでナポレオンは、やはり自分の手でジョゼフィーヌの頭上に冠を置いた。有名なダヴィドの絵が、その場面を描いているように。
しかし、戴冠は教皇の手によってではなく、ナポレオン自身の手によってなされた。突然の思いつきではない。 この行動には、ヨーロッパに自由の革命精神を根づかせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配のもとに教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる。ついでナポレオンは、やはり自分の手でジョゼフィーヌの頭上に冠を置いた。有名なダヴィドの絵が、その場面を描いているように。
上記の絵の一部を拡大してみた。観覧席の左に座っている女性はマリア=レティツィア=ボナパルト。ナポレオンの母である。教皇よりも重要な位置に座り、式典を眺めているが、これは嘘。母マリアはナポレオンが皇帝になることには反対で、式典には出席していない。
上の浄書総譜はウィーン楽友協会が所蔵しているものだが、表紙に書かれた「ボナパルト」という題名とナポレオンへの献辞をペンでかき消した上に「シンフォニア・エロイカ」と改題され、「ある英雄の思い出のために」と書き加えられている。交響曲第3番「英雄(エロイカ)」の浄書総譜である。
作曲したのは、いうまでもなくベートーヴェンである。 ベートーヴェンの交響曲第3番はナポレオンへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは、「奴もまた俗物に過ぎなかったか。これから、人々の人権を踏みにじって自分の野心のためだけに奔走し、誰よりも自分が優れていると誇示する暴君になるのだろう」と言い、献辞が書いてある表紙を破り取ったという。弟子フェルディナント=リースの回想に基づく有名なエピソードが伝えられている。
しかし実際は、浄書総譜には表紙を破り取った形跡はなく、書き直しただけであり、このエピソードが事実であるかどうか疑いが持たれている。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある。(つづく)
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しかし実際は、浄書総譜には表紙を破り取った形跡はなく、書き直しただけであり、このエピソードが事実であるかどうか疑いが持たれている。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある。(つづく)
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