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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー大陸を制覇せよ!・ナポレオン③

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ナポレオン1世

 革命フランスが、旧体制のヨーロッパ諸国を制圧して文明的な変革を与える、というイメージは、ジャコバン支配の時代にも革命家がいだくものであったが、ナポレオンもそれを受けついでいる。少なくとも大義名分としては十分であった。しかし、諸国のほうが、はいそうですかと従うわけはない。

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トラファルガー海戦

 1805年秋、ナポレオンはイギリス本土を直接たたく準備にかかった。1803年5月にイギリスがアミアンの和約を破棄した結果、両国は戦争状態にもどり、1805年の8月には第3回対仏大同盟が、イギリス、オーストリア、ロシアの間で結ばれていたのである。

 1805年10月21日、フランスとスペインの連合艦隊はネルソン提督ひきいるイギリス艦隊と、スペインのトラファルガー沖合で激突した、連合艦隊は「ビューサントル号」を旗艦とする33隻、これに対してイギリス艦隊は「ヴィクトリー号」を旗艦とする27隻。激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、制海権をとられてしまった。ナポレオンはイギリス本土侵攻作戦を放棄せざるをえないことになる。

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ネルソン

 この海戦で、ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。 海戦史上まれにみる大勝利をおさめたネルソン提督であったが、フランス艦ルドゥタブル号の狙撃兵の銃弾に倒れた。ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息したと言われている。

 ネルソンの遺骸は腐敗を防ぐために、乳香と樟脳を入れた当時最高級のコニャックの樽に入れられ、ヴィクトリー号が曳航された先のジブラルタルにてワインを蒸留したスピリッツで満たされた棺に入れ替えられ、大事に鉛で密封されて本国まで運ばれた.。

  死後、遺体保存のため、ラム酒の樽に漬けられたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまい、帰国の際に空っぽになっていたという。このためラム酒が「ネルソンの血」と呼ばれるようになったという有名な逸話があるが、どうも史実と異なるようだ。

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トラファルガー広場の中央に建つネルソン記念柱

 宮中で報告を心待ちにしていた国王および貴族は、空前の大勝利とネルソンの死を聞きつけ、また、その死にざまに衝撃を受けた。翌年、君主以外では初となる国葬としてセント=ポール大聖堂に葬られた。

 この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場で、中央には高さ5.5mのネルソン記念柱が建っている。

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アウステルリッツの戦い

 ナポレオンはトラファルガー海戦の敗北の後、戦闘の焦点を大陸に集中した。ミュンヘン、ウィーンへと攻め込んだナポレオン軍は、1605年12月2日、奇しくもナポレオンの戴冠1周年の日に、アウステルリッツでオーストリアとロシアの両皇帝軍と会戦してこれを撃破した。

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フランツ1世

 オーストリア皇帝はフランツ1世。神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世であるが、1804年からオーストリア皇帝フランツ1世も名乗っていた。

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アレクサンドル1世

 ロシア皇帝はアレクサンドル1世。アウステルリッツでは敗北したが、1812年にナポレオン軍を撃退し、これがナポレオン没落の始まりとなる。

 3人の皇帝が一つの戦場に会したことから、アウステルリッツの戦いは三帝会戦とも呼ばれる。この戦いの結果、オーストリアは和平を余儀なくされ、ロシアも翌年6月には和平を結んだ。

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エトワール凱旋門

 ちなみにパリのエトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。

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ナポレオンのベルリン入城

 アウステルリッツの戦いにより第3回対仏大同盟は崩壊したが、すぐに第4回の同盟が成立する。今度はオーストリアにかわりプロイセンが参戦してきた。フランスの従属下に、西南ドイツに結成されたライン同盟に、危機を感じたからである。

 はじめ攻勢に出たのはプロイセンであったが、1806年10月ナポレオン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに大勝してベルリンを占領し、さらにポーランドに侵攻してワルシャワを制圧した。ポーランドの人たちは、国家再建のきっかけにしようと、ナポレオン軍の侵攻をむしろ歓迎した。翌1807年、雪解けとともに攻勢を再開したナポレオン軍は、6月には東プロイセンでロシア軍と戦火をまじえ、これを破る。破竹の勢いだった。

 7月、ロシア国境に近いプロイセン東部のティルジットで講和条約が結ばれた。ロシアはナポレオンの大陸政策を承認せざるをえず、プロイセンは、賠償金の支払いのほかに、エルベ川以西の土地をフランス軍占領下に置くことに同意さざるをえなかった。

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 ナポレオンによる支配は、1812年にはまさにヨーロッパを席巻したかたちになった。彼が率いるフランス帝国は、オランダ、北西イタリアなどを併合して130県にふくれあがったばかりでなく、西ドイツ、イタリア、スペインには傀儡的な従属国家をおき、プロイセン、オーストリアを同盟国とした。完全な独立状態を維持していたのは、北ヨーロッパを除けば、ロシアとオスマン=トルコの両帝国、そしてイギリスのみであった。だが、この大帝国はもろい、みせかけだけのものだった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/13 05:15 】

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