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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー帝国の崩壊・ナポレオン④

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ジョゼフ=ボナパルト

 ナポレオンの没落は実はスペインから始まっている。スペインは、1796年以フランスの同盟国だったが、その王位継承にからむ内紛に乗じたナポレオンは1808年、王位を奪い取り、兄のジョゼフをスペイン国王に任命した。昔日のおもかげもなく衰退したスペインなどひとひねり、そう考えたに違いない。実際、王族たちをたぶらかすのは簡単だった。ところが抵抗は思わぬところからやってきた。市民や農民たちが、各地で激しく抵抗したのである。

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抵抗するマドリード市民

 特に農民たちを中心にしたゲリラ戦は、戦力集中型の電撃戦を得意とするフランス軍を困惑させた。「ゲリラ」とはスペイン語で「民衆」の意味である。スペインの農民たちは、ナショナリズムに燃えて蜂起したわけではない。むしろ「よそ者」どもが入り込んでくることへの自己防衛的反応であった。ところが、自由主義的考え方を持ち込んでくるフランス軍に対して反発していたスペインの封建貴族たちが、農民の抵抗を利用するかたちで、ゲリラ戦は広まっていった。

 1808年夏、アンダルシアでフランス軍が敗北した。11月、16万の大軍を率いたナポレオンは、みずからスペインに侵攻し、自由主義的な改革などの施行を宣言した。だが、ゲリラ戦は止むことがなかった。フランス軍内部でも、士気に乱れが生じた。しかもナポレオンは1809年1月、ドイツやオーストリアの情勢の変化を受けて、パリへ戻らざるをえなかった。スペイン情勢は泥沼化した。

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「1808年5月3日」ゴヤ画

 上の絵は、スペイン最大の画家と言われるゴヤの描いた「1808年5月3日」という作品である。1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いている。

 背後の暗闇に王宮が浮び上がる中で、明るく照らされた一人の男に処刑隊の銃弾が向けられた瞬間が描かれている。両手を大きく広げた白い服の男性の右手には聖痕が描かれているが、これは磔刑となったイエスと同じように民衆側が正義をつらぬく殉教者であることを示している。処刑を命じられたフランス兵は、誰一人として市民を直視することができず、全員が目を伏せている。

 スペインでの挫折は、むなしく多大な戦費をフランス国庫に赤字として残した。イギリスは、イベリア半島の港を通じて交易の糸口を回復し、ナポレオンの25万の大軍が半島に釘づけになっているすきに大陸では、密貿易が容易になされた。のちにセントヘレナ島でナポレオンは、「この不幸なスペイン戦争は、ほんとうに痛手であった。フランスの不幸の第一の原因だ」と述懐するが、すでに遅い。

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ナポレオン軍

 スペインでの混乱に乗じて反攻に出たオーストリア軍を、ナポレオンはなんとか制圧した。正規軍どうしの戦闘では、依然ナポレオン軍は強かった。一方で、ロシアの対外政策は、あちこちでナポレオンのそれとぶつかっていた。ナポレオンがバルト海の都市を制圧することは、ロシアの喉元に銃口がむけられたようなものだ。ナポレオンはイスタンブルへの侵攻も念頭にあるらしい。地中海への出口を制圧されることは、ロシアにとって認めがたい。周辺への布石を打ったナポレオンの野望のなかで、ロシア侵攻作戦がふくらむ。それは、大陸体制の完成をめざした行動であった。

 きっかけを与えたのは、1811年の経済危機であった。この危機は、大陸封鎖が完全に実行されていないからだ。そうみなしたナポレオンは、イギリスへの穀物輸出をやめようとしないロシアに、制裁の実力行動をかけようと作戦を練った。

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ボロディノの戦い

 1812年6月、予定通りナポレオン指揮下の主力軍が、バルト海方面からニエーメン川、ロシア語でいうネマン川を渡河してロシアへの侵攻を開始した。予想に反し、ロシア軍は直接の戦闘を避け、ひたすら退却した。追うナポレオン軍。ロシア軍の手で焼き払われたスモレンスクの町まで侵攻したのは、8月半ばであった。

 ロシア軍によって焼き払われた大地を進むナポレオン軍のなかに、赤痢が広まり、糧食の補給は困難をきわめた。ナポレオンが集めた67万5000の軍勢のうち、フランス兵は約30万にすぎない。あとは、オーストリア、プロイセンをはじめとした同盟国や従属国からの寄せ集めで、士気は上がらない。脱走兵も出る。すでに15万の兵力が、戦闘のないまま手元から落ちていた。

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クトゥゾフ

 なおも行軍を続けるナポレオン軍は、9月7日、モスクワてまえのボロディノで、はじめて将軍クトゥゾフの率いるロシア軍と会戦した。激戦で3万の兵士を失いながらも、ナポレオン軍は突破に成功した。

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炎上するモスクワ

 9月14日、ついにモスクワに入城。だが兵士たちの疲弊はひどく、しかも、ほとんどの市民が脱出してもぬけの殻となった町には、火が放たれていた。町の4分の3は焦土と化した。

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モスクワから退却するナポレオン

 モスクワとパリでは、連絡に15日を要した。本国からあまりにも遠く来すぎたナポレオンは、冬将軍の到来を前にして、モスクワ越冬の道はとらず、退却を指令した。10月19日、大軍の撤退が始まった。往路とは別のルートをとれば、糧食の確保も可能だったかも知れない。

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退却するナポレオン軍

 しかし、ロシア軍の攻撃で、結局は同じ道をひたすら退却するのみとなる。ひどい寒さが襲った。敵軍と農民ゲリラの奇襲におびえながら雪原を後退する軍には、もはや士気もなにもあったものではなかった。

 退却途上のナポレオンに、パリでのクーデタ未遂の報が届く。遠征失敗が伝われば、さらに混乱の危険は高い。ナポレオンが軍勢をおいて、パリへと急いだ。残された軍はばらばらになりながら、やっと12月半ば、ニエーメン川を渡ってロシアを脱出した。死者、捕虜、脱走をあわせ、じつに38万の兵力損失が見積もられている。

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ライプチヒの戦い

 ロシアの雪原からパリへ向かう途上、ナポレオンは同行した腹心にこう語っている。「われわれの壊滅は、とんでもない反響を引き起こすだろう。しかし、わたしが戻れば、まずいことにならずにすむさ」

 ナポレオンは過信していた。帝国崩壊の危機を理解しようとしない。ロシア、プロイセンの軍勢からの攻撃を、1813年5月に破った時も、ナポレオンは妥協に応じようとしなかった。オーストリア、プロイセン、ロシアの同盟が復活し、スウェーデン、シレジア、ボヘミアなどの軍勢も加わった。8月、戦闘は再開された。

 10月16日から19日にかけて、ナポレオン軍16万はライプチヒで、同盟軍32万の大軍と戦火をまじえた。ナポレオン側についたザクセン、ヴィッテンベルクなどの軍勢が離脱し、ナポレオン軍は敗走を余儀なくされた。ライプチヒでの敗戦の報は、それまでフランスの支配下におかれてきたところでいっせいに反旗を翻させた。オランダ、イタリアは、あいついでフランスの手から離れた。なぽれおんは、イギリス軍の攻勢が強まるなか、ついにイベリア半島からの撤退も決意さざるをえなかった。

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 タレーラン

 1813年末にライン川を越えた同盟軍は、年がかわると一気にフランス領内に攻め込んだ。15万の同盟軍に立ち向かうナポレオン軍は、もはや8万ほどでしかない。装備も糧食も不十分にか残されていない。1814年3月末、ついに同盟軍は、ロシア皇帝とプロイセン王を先頭に、パリに入城した。

 パリが陥落した時、ナポレオンは軍勢とともに、パリ南郊のフォンテーヌブロー宮にいた。彼はまだあきらめてはいなかった。「パリへ」という声も、兵士の間からはあがっていた。しかし、変わり身の早い政治家たちは、すでにナポレオンを切り捨てに入っていた。その筆頭は策謀の士、タレーランである。


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退位後のナポレオン

 4月2日、元老院は皇帝の廃位を宣言し、6日にはルイ18世の即位を決定する。王政復古だ。ナポレオンは、地中海のエルバ島の支配権と戦費の支給を同盟国から承認されるという条件で、みずからの皇帝退位を認めざるをえなかった。事実上の流刑である。

 4月20日、フォンテーヌブローを出発するナポレオンは、すすり泣く兵士たちに最後の言葉を告げた。

 「20年来、諸君は私とともに名誉と栄光の道をともにしてきた。さらば、わが子らよ。できることなら、諸君をみな胸に抱きしめたい。せめてものしるしに、諸君の軍旗を抱くことを許されたい」(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/16 05:17 】

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