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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー日は沈む、大西洋の彼方に・ナポレオン⑤

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ルイ18世

 エルバ島に流刑になったナポレオンではあったが、まだ終わりではなかった。ヨーロッパの秩序再建を討議するウィーン会議は、いっこうに進む気配がなかった。フランス国内では、亡命貴族と帰国したルイ18世の王政復古に不満と不安が生じていた。革命の成果が帳消しにされるのではないか。またぞろ、窮屈な身分制度が復活するのではないか。兵士たちには解雇後の心配もあった。ナポレオンは、地中海の生まれ故郷コルシカ島に近いエルバ島にいても、ヨーロッパの情報を的確につかんでいた。

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エルバ島よりの帰還

 1815年2月26日、1000名たらずの手勢を率いたナポレオンは7隻の船で島を脱出、3月1日にカンヌ近くに上陸した。その後20日間でパリまで駆け上がったナポレオンたちの足取りは、まさに「天かける鷲」のごとくであった。王党派の襲撃を警戒してローヌ川沿いを避け、グルノーブルを通る迂回ルートが選ばれたが、道々、農民や労働者までもが、ナポレオンを歓迎した。兵士たちは「皇帝万歳」を歓呼して、彼の復帰を迎えた。

 その間の彼の動静を伝える新聞報道の変化を見出しで拾ってみると面白い。

「怪物、流刑地を脱出」→「コルシカの狼、カンヌに上陸」→「猛虎ガップに現れ、討伐軍派遣さる」→「専制皇帝リヨンに入る。恐怖のため市民の抵抗はマヒ」→「僭主、パリより50マイルの地点に迫る」→「ボナパルト、北方へ進撃中。進撃の速度増すも、パリ入城は不可能か」→「ナポレオン、明朝を期してパリへ」→「皇帝、フォンテーヌブローへ入らせられる」

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元帥ネー

 ナポレオンのフランス上陸がパリに伝わったのは、3月5日。軍はもはや復古王政のもとにある、と信じていた国王たちには動揺はなかった。ところが、軍の内部には不服従が広まって、司令官アルトワ伯の手にはおえなくなる。かつてナポレオンとともに転戦した歴戦の勇士、元帥ネーは、フランス中部のオーセールにナポレオンを迎え撃つはがず出迎え、ナポレオンの軍勢がふくらむ。19日夜半、国王はひそかにテュイルリー宮を出て、ベルギーのガンへ向かって再び亡命の旅路についた。

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テュイルリー宮のナポレオン

 3月20日夜9時、「皇帝万歳」の歓呼のなか、ナポレオンがテュイルリーに戻り、三色旗がひるがえった。誰もがわが目を疑った。このナポレオンの復帰は、ブルボン朝復活に不安をいだく農民、労働者、そして軍の力によるものであった。それをナポレオンも無視できない。前年ルイ18世が制定させた憲章に自由主義的改編を施し、いわゆる自由帝政といわれる新憲法を発布し、得意の国民投票で承認をうける。だが、投票率の低さは、みかけほど彼が歓迎されていないことを如実に示した。

 ブルジョワ名士層も、戦争の危険をもたらす男に、いまでは冷ややかな目しか向けていない。ナポレオンには、もはや切り札はなかった。ウィーン会議に集まっていた諸国は、ナポレオンのエルバ島脱出を知ると、今度こそは決定的にたたくことを取り決めた。妥協を模索したナポレオンの動きは無視された。2年遅すぎた。

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ワーテルローの戦い

 覚悟したナポレオンは、最後の賭けに出る。全ヨーロッパを敵にまわしての戦いだ。運命の決戦は、6月18日、ワーテルローで行われた。12万500の軍勢を率いてベルギーに攻め込んだナポレオンは、オーストリアとロシアの援軍が来ない前に、ウェリントン率いるイギリス軍9万と、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍12万を別個にたたこうとして、ますイギリス軍にねらいを定めた。しかし、イギリス軍はよく持ちこたえた。

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ウェリントン

 ナポレオンは味方のグルーシー将軍率いる援軍を待った。しかし姿を見せたのは、プロイセン軍であった。戦線の混乱と壊滅、ナポレオンはかろうじて脱出し、6月21日、パリに帰還した。

 もう戦争を避けたい議会は、抗戦を主張するナポレオンを退け、退位をせまる。街頭に出たパリの民衆は「皇帝万歳」を叫び、ナポレオン支持を表明していた。しかしナポレオンは、最後まで、民衆のうえにたってのみ行動することを嫌った。「一揆の王になることは、余の望むところにあらず」。

 すべては終わりだった。翌22日、ナポレオンは退位に同意する。豹変する無節操な策士フーシェとタレーランが暗躍して、またも王政復古となる。ナポレオンの復帰は「百日天下」に終わった。

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セントヘレナに向かうナポレオン

 まだ軍の一部によって抵抗を続けようとしたナポレオンは、今度は遠くアフリカの沖合の孤島セントヘレナ島に文字通り流刑となった。ナポレオンはごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。

 ナポレオンは特に島の総督ハドソン=ローの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。


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ナポレオンの死

 そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に52歳で死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された。

 ナポレオンの最期の言葉は、「フランス!…アルメ!(軍隊)…テーテ(戦闘)…ジョゼフィーヌ!」であった。

ナポレオンの棺 
ナポレオンの棺

 その遺体がフランスに返還されたのは、第二共和政下の1840年であった。パリ民衆の歓呼に迎えられた彼の遺体は、16頭立ての馬車に乗せられ凱旋門をくぐってパリに入った。

 「余の遺骸はセーヌ川の辺に埋めよ」の遺言にもとづき、現在はパリのオテル=デ=ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/20 05:14 】

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