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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーナポレオンが愛した3人の女性・ナポレオン⑥

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ジョゼフィーヌ

 1795年、ナポレオンは自身の指導者であり総裁政府のリーダー格であったバラスが主催するパーティで、ジョゼフィーヌと出会い恋に陥ってしまう。この時、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳であった。ナポレオンの熱烈なプロポーズを受けて、翌年2人は結婚したが、ナポレオンは初婚、ジョゼフィーヌは再婚で、2人の子連れであった。

 ジョゼフィーヌは1763年にフランス領西インド諸島マルティニーク島に3人姉妹の長女として生まれた。生家は貴族といっても名ばかりで、その上父親はギャンブル中毒で家は貧しかった。

 16歳の時にボアルネ子爵と結婚し、1男1女をもうけたが、当初から夫婦仲は悪く、4年後に離婚してしまう。後にボアネル子爵は、フランス革命さなかの1794年に反逆罪でギロチンで処刑されてしまうが、ジョゼフィーヌは幸運にも刑を免れている。

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バラス

 その後、ジョゼフィーヌは生活のためにバラスの愛人となり、社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。しかし、バラスはジョゼフィーヌに飽きてしまっており、ナポレオンに押しつけたとも言われる。結婚はしたものの、ジョゼフィーヌはナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。

 ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト=シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。

 しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まった。この頃
から徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。

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オルタンス

 なお、ジョゼフィーヌの娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。1810年にオルタンスはルイ=ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。

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「皇帝ナポレオンと1世とジョゼフィーヌの戴冠」ダヴィド画

  1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。

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ポレオン1810年1月には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だったという。

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マルメゾン城のナポレオンの居室

 それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリ=ルイーザが嫉妬するほどだった。

 ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たず、1814年5月29日に肺炎で急死した。50歳であった。この報せを聞いたナボレオンは数日間ふさぎこんでいたという。
 そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、アルメ(軍隊)、テーテ(戦闘)、ジョゼフィーヌ…」であった。

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マリア=ヴァレフスカ

 1786年にポーランド貴族の家に生まれたマリアは、16歳の時に名門貴族であるヴァレフスカ伯爵から求婚された。夫は46歳も年上の62歳。父親の借金の肩代わりのための結婚であったが、マリアは家を救うために、これを承知した。

 不幸な結婚をしたマリアだったが、やがて転機が訪れる。1806年、ナポレオンはプロイセンに続き、ロシアを撃破するためにポーランドに軍を進め、12月18日にワルシャワに入った。ナポレオンとフランス軍は、ポーランドの救い主として熱狂的な歓迎を受けた。1807年1月7日、フランス外相タレーラン主催の舞踏会にマリア=ヴァレフスカは夫と共に出席し、ナポレオンと出会った。美しい伯爵夫人にナポレオンは一目ぼれしたナポレオンは早速、花束や手紙を贈らせて彼女に求愛したが、信仰心が強く貞淑な彼女はこれをことごとく無視した。

 
しかし、ナポレオンにポーランド復興の期待をかけた人々がヴァレフスキ伯爵の邸を訪れ、ポーランドのためにナポレオンの求愛に応えてくれるようマリアに頼んだ。夫のヴァレフスキ伯爵も承諾し、マリアはナポレオンの愛人になった。ナポレオンは40歳、マリアは21歳であった。マリアがナポレオンの愛人になったことが、ワルシャワ大公国の成立に繋がったと言われる。

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アレクサンドル=ヴァレフスキ

 自ら愛人になることを望んだわけではなかったが、次第にマリアはナポレオンを本当に愛するようになっていった。彼女はおだやかで慎ましく、欲がなく純真な性格で、ナポレオンもそれまでの愛人たちとは違う彼女を深く愛するようになり、彼女を「ポーランドの妻」と呼んだ。

 1809年、9月にマリアから妊娠を告げられたナポレオンは自らの生殖能力に自信を抱き、ヨーロッパ君主の皇女たちと縁組することを考え始めた。マリアはナポレオンがジョゼフィーヌと12月に離婚した後、オーストリア皇女マリー=ルイーズと結婚するつもりでいることを知った。マリアは彼の計画の邪魔になってはとポーランドに帰った。ナポレオンは自分の野心のためにマリアを捨てたのであった。

 マリアは1810年5月4日、息子アレクサンドルを出産した。この子供はヴァレフスキ伯爵の子供として認知されることになった。後に、アレクサンドルはフランス市民権を得て、ナポレオン3世下で外相を務めている。

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神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)

 マリア=ルドヴィカは1791年にフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度にわたって追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。

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マリ=ルイーズ

 ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌには長らく子が誕生しなかったが、ナポレオンのポーランド滞在中にマリア=ヴァレフスカを懐妊させたことを契機に、名家との婚姻を熱望するようになる。

 当初ロシア皇帝アレクサンドル1世の妹のアンナ=パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。そこで、名門ハプスブルク家の皇女マリア=ルドヴィカ(フランス語でマリ=ルイーズ)に白羽の矢が立った。この決定はオーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。ナポレオンと結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。

 
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ナポレオンとマリの結婚式 

 1810年4月1日、マリ=ルイーズはルーヴル宮殿の礼拝堂で皇帝ナポレオンと結婚式を挙げ、皇后となった。ナポレオンは40歳、マリは18歳。マリは大叔母マリ=アントワネットを処刑した国の皇后となったわけである。

 しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、自分に対してとても優しかったため、マリ=ルイーズは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていった。ナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、彼女の機嫌を損ねないように必死だったのである。

 彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っていることでしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

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ナポレオン2世の誕生

 1811年3月20日、マリ=ルイーズは男子を出産した。ナポレオン2世である。この時、大変な難産で母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師から聞かされたナポレオンは、ためらわず「母を救え!」と言ったという。

 
パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。」ナポレオン2世は生まれてすぐの6月9日にローマ王とされた。ナポレオンはこの息子の誕生を大喜びし、とても可愛がった。

 
マリ=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。

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ナポレオン2世

 母とともにオーストリアにナポレオン2世(本名はフランソワ)は、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒにより、ほとんど監禁同然の身となった。母親は再婚し、孤独な少年時代を送っている。

 1821年5月5日、幼い時に別れたまま一度も再会することがなかった父ナポレオン1世がセントヘレナ島で死去した。父の死を知ったフランツは、椅子に身を投げ出し泣いたという。
 
 1832年7月22日、フランソワは21歳という若さでこの世を去った。(おわり)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/23 05:17 】

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坪内初美  *  URL[編集] 【 2020/10/25 08:16 】

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