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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーウィーン体制の仕掛け人・メッテルニヒ

メッテルニヒ 新 
メッテルニヒ 

 1773年にライン地方の名門貴族の家に生まれたメッテルニヒは、16歳でフランスのストラスブール大学に入学して外交学などを学んだ。フランス革命が勃発すると、その革命軍がアルザスやラインラントを占領した。この経験は、その後激化するナポレオン戦争とあわせ、メッテルニヒのナショナリズムに対する強い警戒心を育むことになった。

 22歳の時に前宰相カウニッツ伯の孫娘と結婚、高位官職への道が開けて職業外交官となった。駐ドレスデン公使・駐ベルリン公使を経て、駐フランス大使となり、ナポレオン1世の帝政をつぶさに観察した。

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神聖ローマ皇帝フランツ2世

 1808年、スペインでの反ナポレオン蜂起に乗じてオーストリアも開戦したが敗れ、神聖ローマ帝国は消滅し、フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世を称するだけとなった。事実上、ナポレオン帝国の属国のような状態になるなかで、フランツ1世はメッテルニヒをオーストリア大使としてパリに送り、その折衝に当たらせた。

 メッテルニヒはオーストリア皇帝フランツの娘マリ=ルイーズをナポレオンと結婚させ、その懐柔を図った。正妻ジョセフィーヌに子供がいないことから離婚したばかりのナポレオンは、ハプスブルク家の女性を妻に迎えることで皇帝としての箔がつくので大いに喜んだ。

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ライプチヒの戦い

 ナポレオンがモスクワ遠征を計画すると、メッテルニヒはオーストリアからも兵士を出す姿勢を見せながら、密かにナポレオンに和平を促した。そしてそれが受け容れられないと知って、ナポレオンを見限り、ロシア・プロイセンと同盟することを決断、1813年に反ナポレオンの同盟軍とナポレオン軍の決戦ライプチヒの戦いとなり、同盟軍が勝利してナポレオン時代は実質的に終わりを告げることとなった。

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ウィーン会議

 1814年9月、ウィーンに各国代表が集結、ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の再建に向けての一大国際会議であるウィーン会議が開催された。ロシア、イギリス、プロイセン、オーストリアの四大国からなる委員会が任命され、満場一致でメッテルニヒがその議長に選出された。

 メッテルニヒが最初に行ったことは、フランス代表のタレーランを参加させることの同意を委員からとることだった。メッテルニヒの提案通り、タレーランはフランス代表として会議に参加することとなった。敗戦国の代表を最初から加えたところにメッテルニヒの現実的な外交手腕を見ることができる。

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ウィーン会議の風刺画

 フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと(正統主義)を理念として会議が始まったが、実際には各国とも領土の拡張と有利な条件の獲得を狙って腹を探り合い、なかなか進捗せず、代表たちは舞踏会などでいたずらに時間を浪費したため『会議は踊る、されど進まず』と揶揄された。

 しかし、1815年2月ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、列国は合意の形成を急ぐこととなり、1815年6月にウィーン議定書の調印にこぎつけた。

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ウィーン会議の風刺画

 上の風刺画では各国が領土再編をめぐって、腹を探り合っている。ナポレオンはフランスを切り取ろうとしている。フランスはこの時敗戦国であったが、「正統主義」を掲げたために一役買うことができた。

 地図
ウィーン体制下のヨーロッパ

 舞台裏の外交交渉を取り仕切ったメッテルニヒによって、ヨーロッパの地図は新しく書き換えられた。フランス、スペイン、ポルトガル、ナポリなどに旧君主が復位した。とりわけフランスを1790年段階の国境に戻らせ、そのうえで列強に獲物の分け前を分配する。ワルシャワ大公国の大部分はポーランド王国と改称してロシアのものに。プロイセンにはラインラント、ヴェストファーレンとザクセンの北半部。イギリスには大陸外のマルタ島、イオニア諸島、セイロン島、ケープ植民地。オーストリア自らはベルギーを放棄してオランダ王国に合わせ、かわりに北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアを獲得する。また中欧には35のドイツ諸邦国と4自由市からなるドイツ連邦を重ねた。

 オーストリア帝国はドイツ連邦の議長国としてその主導権を握り、連邦諸国内の自由主義・ナショナリズム運動弾圧の中心にたち、全ヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の柱と見なされた。メッテルニヒは秘密警察を駆使して、反体制の取り締まりに当たり、その触手はヨーロッパ全域に及んだ。彼のオーストリアにはドイツ人が20%強しか住んでおらず、14%のハンガリー人ほかスラヴ系など11民族が寄り合う大複合国家である。「民族の方舟」と評されるこの帝国で、民族単位の国民国家形成などとうて容認できるものではなかった。

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ブルシェンシャフト運動

 ドイツの学生生活は、それまでは郷土的な結合である学生組合(ランツマンシャフト)に支配されており、その実態は下級生いびりと酒、そして決闘の刃傷沙汰であった。しかしナポレオンとのライプチヒの戦いなどの解放戦争に参加し、狭い郷土を越えた「祖国」ドイツのために戦ううちに、そのような学生組織は時代遅れに思われるようになった。そんなとき、1815年6月体操家ヤーンを精神的指導者として、戦場帰りの学生を中心にイエナ大学に新しい学生組合ブルシェンシャフトが創立された。

 1817年10月、宗教改革300年祭とライプチヒの戦勝記念祭を兼ねた祝祭を11大学500人の学生を集め、ルターゆかりの古城ヴァルトブルク城で開催した。それは宗教改革者マルティン=ルターが新約聖書のドイツ語訳を完成させた場所として知られていた。学生と教授たちはこの記念大会の席上で、黒色・赤色・金色からなる三色旗を掲げながら、自由ドイツ、統一ドイツの実現を強く訴えた。学生たちは中世の古衣装を身に着け、剣を捧げて練り歩いた。

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ヴァルトブルク祭の焚書事件

 祝祭を終えた夜、一部の学生はプロイセン軍の兵士服、オーストリア軍の指揮棒などとともに警察の法令集やナポレオン法典などの書物(の名を書いた紙束)を火に投じ焚書の儀式を行った。

 この学生組合の行動に驚愕したメッテルニヒは「ジャコバン主義」として禁圧を命じた。そんな中に起こった学生による劇作家コツェブー暗殺は、メッテルニヒに全面的弾圧の口実を与えた。メッテルニヒは1819年、カールスバートに連邦の主要国の大臣会議を招集し、いっさいの学生団体は禁止、大学への監督官の常駐、出版物の検閲、などの言論統制と大学への監視強化を要請した。これはカールスバートの決議と言われ、9月20日にドイツ連邦議会で採択された。これによって、ドイツのブルシェンシャフト運動は厳しく弾圧されることとなり、衰退を余儀なくされた。

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逮捕されたカルボナリ

 メッテルニヒがカールスバート決議を成立させたのは、ドイツだけでなく、全ヨーロッパでウィーン反動体制に対する自由主義、ナショナリズムの運動が高揚しつつあったことへの対応であった。このあと、1820年にイタリアではカルボナリ(炭焼党)は北イタリアをオーストリア支配から解放し、イタリアの統一を求めて蜂起した。オーストリアは武力でその反乱を鎮圧した。

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デカブリストの反乱

 同年、ブルボン王朝支配下のスペインではスペイン立憲革命が起こった。1825年には保守反動勢力の中心勢力とみなされヨーロッパの憲兵と言われていたロシアでデカブリストの反乱が起こった。オーストリアは領内のポーランド人やハンガリー人の独立運動も抱えており、自由主義・ナショナリズムの高揚には神経をとがらさざるを得なかった。事実、1830年にフランスで七月革命が起きるとその影響が広がり、ポーランドの反乱、ドイツの反乱、イタリアの反乱が相次いで起きている。

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1848年革命の波及

 メッテルニヒの権力はさらに1840年代まで続いたが、ついに1848年革命がヨーロッパ各地で勃発、フランスの二月革命がウィーンにも飛び火し、ウィーン三月革命が勃発した。その打倒すべき最大の標的とされたメッテルニヒは、かろうじて「洗濯物を積んだ荷車に身を潜めて」ウィーンを脱出し、イギリスに亡命した。

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晩年のメッテルニヒ

 ロンドンに亡命したメッテルニヒは、革命情勢が収まるまで待ち、1851年にウィーンに戻った。それ以後、1859年まで生き延び、引退しながらも86歳で亡くなるまで黒幕として活動を続けた。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/27 05:10 】

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