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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー「嘘つきの父」・タレーラン

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タレーラン

 タレーラン(正式にはタレーラン=ペリゴール、これで姓になる)は1754年に伯爵家の長男として生まれた。フランスでは貴族の子弟が名誉と金銭を得る途は、軍人か聖職者(僧侶)になるしかなかった。いわゆる「赤と黒」(スタンダール)である。

 タレーランの父は軍人であった。しかし、タレーランは子供のころの事故で片脚が不自由になったため、父の指示で聖職者の道を進んだ。神学校とソルボンヌで学んだ後、一族の影響力によって順調に出世し、1788年にルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。

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1789年の三部会

 1789年、三部会が招集されると、オータンの聖職者代表として選出され、第一身分に属しながら国民議会の設立に賛同した。国民議会は最も重要な財政問題の解決に苦慮していたが、タレーランは聖職者でありながら、教会財産の国有化を提案し、改革派の聖職者としてにわかに脚光を浴びた。万国共通の単位(国民公会でメートル法として制定される)の制定を提案したのもタレーランであると言われている。

 さらに1790年には聖職者基本法に賛成し、みずから司教職を返上し、国家への服従を宣誓した。しかし、こうした反カトリック教会的な行動を咎められて、教皇ピウス6世により破門された。その一方で、この間の混乱を利用して私腹を肥やし、悪評をかっている。

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立法議会の議場(屋内馬術練習場)

 「1791年憲法」で立憲君主政が実現、立法議会が成立するとタレーランはフイヤン派の論客としてジロンド派と対立した。ジロンド派が対外戦争をあおるなか、親英的であったタレーランはたびたびイギリスに渡り外交折衝を重ねた。

 1792年、「八月十日事件」でフイヤン派は勢力を失ったため、同年9月にイギリスに亡命した。しかし、1793年、ルイ16世の処刑を理由にイギリスが対仏大同盟を結成して断交したため、ピットによってイギリスを追われ、アメリカに渡った。タレーランはアメリカ滞在中にも投機でさらに私財を増やした。

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 スタール夫人

 1794年7月、テルミドールのクーデタでジャコバン派が没落、代わって総裁政府が成立すると、タレーランも亡命先のアメリカから戻った。総裁バラスに取り入り、当時愛人だったスタール夫人の口利きで1797年に外務大臣となった。

 スタール夫人はフランス革命勃発の直前に財務長官を罷免されたネッケルの娘で、ロマン派の作家としても知られている。

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ナポレオン

 外務大臣時代のタレーランは、後に歴史を塗り替えることとなる一人の青年と知り合った。それが、一青年士官にすぎなかったナポレオンであった。タレーランはナポレオンの軍人としての才能を知り、彼をバラスに紹介、さらにエジプト遠征を吹きかけ、ナポレオンが世に出るきっかけを作ったのだった。

 1799年、ナポレオンが「ブリュメール18日のクーデタ」で権力を握り、統領政府が成立すると一時退いていた外務大臣に復帰、さらにナポレオンが皇帝となってからもその下で外交交渉に当たり、侍従長も兼ねた。ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大戦力とは相容れず、侵略戦争に反対して1809年に罷免された。

 ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認め合ったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法をナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。

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ルイ18世

 1814年、ナポレオンが退位し王政復古によりルイ18世が即位すると、タレーランも外務大臣に復活した。ウィーン会議では「正統主義」を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。「タレーランは、金儲けに精を出していない時は、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで、敏腕政治家・外交家としての評価が高い。

 ナポレオンの百日天下の時期はパリを離れたが、、ワーテルローの戦いの後に国王とともにパリに戻り、1815年7月、今度は総理大臣となった。しかしすでに60歳を超え、その後の活動は衰え、別荘で静かに暮らすことが多くなった。

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ルイ=フィリップ

 復古王政のルイ18世、シャルル10世が絶対王政に戻そうとして次第に議会と国民から離れていくと、タレーランは立憲君主主義者としての原点に返ったのか、議会つまりブルジョワと協調できる開明的な国王としてオルレアン家のルイ=フィリップに期待し、その担ぎ出しに一役買った。その功績で1830年、七月革命が成功し、七月王政が成立すると、タレーランは75歳で駐英大使に任命された。5年後に80歳で政界から引退。死の直前に教会と和解し、1835年、カトリック教徒として84歳で死去した。

 フランス革命・ナポレオン時代・復古王政・七月王政の激動期に、消えては現れる、「クセ者的な政治家」だった。基本的な政治姿勢は自由主義にあるが、変わり身が早くて私益の追及にも貪欲であったから、「近代ブルジョワ外交の祖」と言われる一方で、「嘘つきの父」とも酷評され、無節操の典型とされる。

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「民衆を導く自由の女神」

 上の絵画は七月革命を題材とした、ルーブル美術館の至宝「民衆を導く自由の女神」である。

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ドラクロワ(自画像)

 作者はフランス=ロマン主義の代表的作家であるドラクロワである。彼が実はタレーランの隠し子であるという噂がある。当時、社交界で伊達男として名を知られたタレーランが、前外務大臣ドラクロワの夫人と不倫関係にあり、その間に生まれたのだという。

 その容貌・容姿が酷似していることや、フランス政府が彼を保護していることなどから、かなり信憑性のある噂のようだ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/30 05:12 】

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