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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー「事実は小説よりも奇なり」・バイロン

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アルバニア風衣装のバイロン

 ジョージ=ゴードン=バイロンは1788年にジョン=バイロン大尉とキャサリン=ゴードンの間にロンドンで生まれ、2歳の時にスコットランドのアバディーンに移った。

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ニューステッド=アビー

 1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド=アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。

 スコットランドで貧しく暮らしていたバイロン母子は、思わぬ遺産に喜んで引っ越して来たが、あまりにも荒れ果てていたため、知人に貸し、二人はロンドンに住んだ。

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バイロン

 1805年、ケンブリッジ大学に入学した。しかし、バイロンは片足が不自由な障害者ではあったが、父親譲りの美貌で知られ、学業を顧みず放埒な生活を送り、最初の詩集『懶惰【らんだ】な日々』は冷評を受けて、1808年ケンブリッジを去った。

 その後1811年までポルトガル、スペイン、ギリシアなどを旅し、この旅に取材した『チャイドル=ハロルドの巡礼』で、生への憧憬と倦怠を奔放な詩風および異国情緒豊かに表現し、一躍詩壇の寵児となった。彼自身「一夜目覚めてすでに天下の詩人」とノートに記した。

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アナベラ=ミルバンク

 バイロンは社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年1月2日にアナベラ=ミルバンクと結婚し、12月10日には娘のエイダ=ラブレスが生まれている。

エイダ=ラブレス 
エイダ=ラブレス

 「平行四辺形のプリンセス」とも称された数学者である母の影響で、エイダも数学に高い興味を持ち、結婚後もそのことが彼女の人生を支配した。同僚のチャールズ=バベッジが創案した計算機を計算だけではなく、何か別のことにも応用できるではないかと考えた最初の人物で、世界初のプログラマーとされている。

 1816年1月16日、アナベラは突然、生後1カ月の娘エイダを連れて、バイロンのもとを去ってしまう。バイロンは4月21日、離婚書証にサインした。

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オーガスタ=リー

 アナベラとの離婚の裏にはオーガスタ=リーの存在があった。オーガスタ=リーはバイロンの父の最初の夫人の一人娘、つまりバイロンの腹違いの姉である。1804年、バイロンが実母キャサリンを亡くして悲嘆にくれていた時、書き送った同情に溢れた手紙が二人を寄せ合う原因となった。

 オーガスタとバイロンは連れだっていても傍目には肉親に見えなかった。彼らが愛し合っているのは、誰の目にも明らかだった。バイロンの結婚が破綻するのも、彼が国を捨てて出国したのも、彼女との近親相姦の噂に押しつぶされたからだった。当時、近親相姦のスキャンダルは、社会的地位も何もかも失うことと相違なかった。

 1814年の春、オーガスタは三女エリザベス=メドラ=リーを出産した。出産の数日後、バイロンは姉の自宅を訪問した。彼は赤ん坊と会い、自分の子だと確信したといわれている。親しい友人であったレディ=メルバーンに、彼は手紙を書き送っていた。「ああ、しかし猿ではないよ。幸運なことにね。」(近親相姦で生まれた子供は猿のようなものだと、当時言われていた。)

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 シェリー

 1816年、離婚やその奔放な女性関係を非難されて祖国を去り、スイスのジュネーヴでロマン派の詩人シェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、その後ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァを放浪した。

 ヴェネツィアでは既婚のマリアンナ=セガティ、22歳のマルガリータ=コーニと関係を持った。コーニは読み書きが出来なかったが夫の家を離れ、バイロンと同居した。二人はしばしば争い、バイロンは自身のゴンドラで夜を過ごすことが多かった。その後、彼がコーニに家を出て行くよう言い放ち、彼女は運河に身を投げた。ラヴェンナではグッチョーリ伯爵夫人テレサと関係を持つなど、退廃した生活を続けた。

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ミソロンギに到着したバイロン

 1823年ギリシア暫定政府代表の訪問を受けたバイロンは、2年前から始まったギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意。1824年1月、沼に囲まれたみすぼらしい町ミソロンギへ到着する。彼は21発の礼砲をもって正式に歓迎され、直ちに5000人の部下を持つ指揮官に任命された。

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バイロンの死

 バイロンはコリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画をたてた。しかし、この戦争好きの詩人は一度も部下を率いて戦場で活躍することはなかった。

 ミソロンギに到着して3カ月後、乗馬に出かけて豪雨に遭遇。高熱を発したバイロンは、4月19日に僅か36歳でこの世を去った。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/03 05:07 】

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