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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー株屋の王・ルイ=フィリップ

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ルイ=フィリップ

 ルイ=フィリップはオルレアン公ルイ=フィリップ2世(平等公)の長男として1773年に生まれた。1793年、フランス革命中の父の刑死によって20歳で公位を継ぎ、ブルボン家の分家の当主となった。

 当時は共和主義者を装ったこともあるが、結局亡命、ナポレオン1世の没落で一時帰国したが、1815年「ユルトラ(過激王党派)」を攻撃してイギリスに亡命し、自由主義者に接近してブルジョワ風に振る舞った。

七月革命 
七月革命

  1830年、七月革命が起こると、銀行家ラフィトらはルイ=フィリップを国王に推挙、共和派はラ=ファイエットを大統領とする共和政を主張したが、ラ=ファイエットはフランス革命の時のように共和政のもとでジャコバン化することを恐れて、君主政がいちばん良いのだ、と言って逃げた。

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パリ市民にルイ=フィリップを紹介するラ=ファイエット

  ルイ=フィリップは「ブルボンを倒せ!」という市民の声に対して、市庁の広間で三色旗につつまれ、ラ=ファイエットと抱き合ってみせ、8月1日には人民主権・上院廃止・行政粛正等とともに、「共和的な制度につつまれた民衆的玉座」を約束。2日、シャルル10世は退位を宣言してイギリスに渡り、9日ルイ=フィリップはブルボン宮で「フランス人の王」となった。

 14日には憲法を制定、七月王政が始まった。国王ルイ=フィリップとしての統治はもっぱら銀行家などの上層ブルジョアジーの利益の保護にあたり、「株屋の王」と揶揄された。



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画家ドーミエが描いたルイ=フィリップ『梨王』

 ルイ=フィリップは「株屋の王」の他にも、「梨王」と渾名された。それは彼の風貌が梨(日本でいう洋梨)にそっくりだったから。このころ石版画による絵入りの新聞や雑誌が刊行されるようになり、盛んに風刺画の対象とされた。とくに、ドーミエは次々とルイ=フィリップを揶揄する絵を発表し、たびたび罰金刑に処せられた。


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ドーミエの作品『ガルガンチュア』

 画面左で玉座に座る巨人は、国王ルイ=フィリップだ。ドーミエは、ラブレーが著した『ガルガンチュア物語』に着想を得て、そこに登場する中世巨人(ガルガンチュア)に国王ルイ=フィリップを見立てている。

 梨型の頭、突き出た腹をして玉座につく国王は、市民から徴収した金を吸い上げようとしている。画面右下には、わずかな金を差しだす極貧に苦しむ市民の姿を描いている。小人と化した労働者は必死に抗っているが、王の家来たちがそれを制圧している。

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ギゾー

 ルイ=フィリップは「フランスの王」(roi de France)ではなく「フランス人(フランス国民)の王」(roi des Français)と称したが、個人的権力に執着し、共和運動が高揚すると、これを弾圧。1840年以降は腹心のギゾーを事実上の首相として反動政治を展開した。ギゾーは『ヨーロッパ文明史』などを著した歴史家としても知られる。

 ルイ=フィリップは銀行家や産業資本家の利益保護を第一に掲げ、同時に海外への進出を図ったが、国内の貧富の差の拡大、労働者・農民の不満が次第に高まり、特に普通選挙の実現を求める政治運動の高まりへと結びついていったが、ギゾーは「選挙権が欲しければ金持ちになることだ」と放言したと言われる。



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改革宴会 

 1847年夏以来、政府反対派は各地に「改革宴会」と称する集会を催して選挙法の改正を政府に要求したが、1848年2月22日を期してパリのシャンゼリゼ街に全国的な大改革宴会を開くことを要求した。ギゾー内閣はその危険性を恐れて前日禁止令を出した。

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二月革命

 しかし、すでに全国からの代表はパリに集まり、集会を開き、それが23日市街戦に発展した。ルイ=フィリップは最初孫に王位を譲って王政を維持しようとしたが、民衆は24日市庁舎に集まって臨時共和政府の樹立を宣言した。

新  
亡命中のルイ=フィリップ

 武装した市民がテュイルリー宮殿前で守備兵に阻止されている間にに、ルイ=フィリップは王宮から脱出を図った。王は妃の助けをかりて重い軍服を脱ぎ、せきたてられて、フロックコートとシルクハットをつける。折りかばんに鍵をかけ、「時計!時計!ああ、自分で持っていた」という慌てかただった。王妃は「裏切り!、裏切り!」と、自分に言いきかせるように、つぶやいていた。コンコルド広場まで、王家の一同は歩いていったが、手配した御者は銃弾にたおれて来ていなかった。幸い、粗末な二台の馬車があったので、一行はサン=クルーへ脱出した。

 こうして、市民にとって“用なし”になった王は、ロンドンに亡命。ヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれたが、2年半後に76歳で客死した。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/06 05:11 】

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