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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー脱獄囚から大統領に・ナポレオン3世①

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ルイ=ナポレオン

 ルイ=ナポレオンの父はナポレオン1世の弟でオランダ王だったルイ。その3男がルイで、母はナポレオンの前妃ジョゼフィーヌと前夫(革命で処刑された)との間に生まれたオルタンス=ド=ボアルネ。つまり、ナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる。

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オランダ王ルイ=ボナパルト

 父ルイ=ボナパルトは1806年にナポレオンからオランダ王位を与えられていたが、兄の傀儡になるつもりはなく、オランダ人の利益を優先する独自路線をとろうとしたため、ナポレオンの圧力で1810年に退位させられた。

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オルタンス

 一方、母オルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者であり、ボナパルト家は常にヨーロッパ人民に依拠せねばならないと主張していた。ルイ=ナポレオンは母の影響を強く受けて育った。

 実はルイ=ナポレオンの出生には疑惑がある。彼の父と母は仲が悪く、2人の男子を儲けた後に1807年まで別居状態になり、その間に母は何人かの男性と愛人関係を持っていたためである。ただ、1807年中にわずかな期間だが父と母が同居していた時期があり、懐胎の時期と符合するため、やはりルイ=ボナパルトが父親とする説の方が有力であるという。

 いずれにしても、ルイ=ナポレオンはナポレオンと似ていなかったこともあり、この噂は後々まで付いて回った。

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ストラスブール一揆を起こすルイ=ナポレオン

 1815年、ナポレオン1世の退位とともにフランスを追放され、母オルタンスと共にスイスで亡命生活に入った。アウクスブルクで教育を受けた後、たびたびイタリアを訪ね、兄のルイとともに愛国的貴族と近づきカルボナリに参加し、イタリアの独立運動にかかわった。

 ルイ=ナポレオンの亡命中、フランスでは1830年の七月革命でルイ=フィリップの七月王政が成立した。若きルイ=ナポレオンは陰謀を企み、1836年にはストラスブールから支持者と共にフランス帰還を試みたが失敗し、ロンドンやアメリカを転々とし、その間、見聞を広めた。

 1839年、『ナポレオン的観念』を執筆して、ナポレオン1世を神格化する「ナポレオン伝説」を煽った。


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ブーローニュ一揆

 1840年8月、ナポレオンの遺骸がパリに帰還したのに乗じ、突如ブーローニュに上陸、蜂起を企てるが再び捕らえられ、終身犯としてパリ北東のアム要塞に監禁されたが、その5年に及ぶ獄中生活で、イギリス古典派経済学やオーウェンやルイ=ブランなどの社会主義の書物を読んで影響を受け、1844年には『貧困の絶滅』という著作を発表している。

 1846年5月25日ルイ=ナポレオンはみずから注文した部屋の改造工事を利用して、脱出しようとした。要塞内で働く労働者の姿に身をやつし、髭を剃り、足に木靴、頭にハンチング帽、肩に顔を隠すための板を担いだ格好で、看守の注意をひくこともなく中庭を横切る。外に出ると仲間が彼を待ちかまえていた。作戦は周到に準備されていたので、予想通り展開した。日が落ちる頃、彼はベルギーに逃れ、そこからロンドンにたどり着いた。ロンドンでは父と母の遺産を使い切ってしまった。

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二月革命

  1848年の二月革命でルイ=フィリップの七月王政が倒れ、フランス復帰の機会が訪れた。さらに労働者の六月蜂起が鎮圧されて共和派が一掃された後の9月の立憲議会補欠選挙に立候補し当選し、ようやくパリに戻った。

 その時すでにナポレオンの子供(ナポレオン2世)は死に、伯父たちもほとんど亡くなっており、彼がナポレオンの唯一の後継者であったので、次第に国民的な人気を獲得することになった。


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大統領選挙の様子を描いた絵

 1848年12月の大統領選挙では、六月蜂起を鎮圧した軍人カヴェニャック(上の絵では、ナポレオンのポスターを持った子供と、カヴェニャックのポスターを持った子供が喧嘩している)、ブルジョワ共和派のラマルティーヌ、社会主義共和派のラスパイユ、正統主義者のシャンガルニエらの対立候補を破り、547万票(投票総数の4分の3)で当選した。かくして、二年前に脱獄囚だった男がいまやフランス大統領になったのである。

 「赤い妖怪」と言われた社会主義に怯え、経済不況にもてあそばれた農民、債権に苦しむ小商店主、小工場主などが彼を支持した。また、銀行家・産業家もルイ=ナポレオンが財産・宗教・家族の尊重など社会秩序を約束したので彼を支持した。大統領選挙は第二共和政憲法に基づいたものであり、当選したルイ=ナポレオンはフランスで最初の男子普通選挙によって撰ばれた大統領となった。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/10 05:05 】

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