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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー馬上のサン=シモン・ナポレオン3世②

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ルイ=ナポレオン 

 大統領ルイ=ナポレオンは、共和政尊重の姿勢を示して共和派と協力したが、議会内には王党派などの右派、急進的な共和派などが対立し安定しなかった。また議会の保守派が結んで、選挙制度の改悪(選挙権を居住3年以上に限定して移動の多い季節労働者などから選挙権を奪おうとした)などの決めたことで労働者の不満が強まったことを背景に、権力強化に乗り出し、4年に限定されていた大統領任期の延長を企てた。

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1851年のクーデタ

 1851年12月2日早朝、ルイ=ナポレオンはクーデタを決行。議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に、警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。ティエールやシャンガルニエ将軍、カヴェニャック将軍などが逮捕された。議会から共和派が追放され、パリで起こったクーデタ反対の市民蜂起が鎮圧された。

 ちなみに、12月2日はナポレオン1世の戴冠式が行われた日であり、アウステルリッツの戦いに勝利した日でもあり、ボナパルト家にとっては栄光の日である。

 
さらに「大統領ルイ=ナポレオンの権威を認め、任期延長を支持するかどうか」についての「ウィ」か「ノン」かを問う国民投票を実施、714万票対59万票の大差でそのクーデターは承認を受けた。それをうけて翌1952年1月には新憲法を制定して大統領任期を10年に延長し、さらに立法権の一部を付与するなど権限を強化した。また大統領には議会に諮らずに国民投票で案件の可否を問う権限が与えられた。

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サン=クルー城からパリに入ったナポレオン3世

  クーデターと新憲法で実質的な独裁権を握ったルイ=ナポレオンは、議会内のボナパルト派の支持を受け、彼らから皇帝就任の要請を出させた。1852年10月9日のボルドーでの演説で、「フランスは帝国に戻りたがっているように思います。……一部の人々が抱く不安には私は応えなければなりません。彼らは挑戦的な意図をもって言います。『帝国、すなわちそれは戦争ではないか』と。私はこう言いましょう。『帝国とは、平和だ』と。……」と述べた。

 同年11月7日、元老院は86対1で帝政復活を決議。さらに、11月21日と22日に国民投票が実施され、賛成782万4000、反対25万3000(投票率75%)の圧倒的な差で国民に承認された。12月2日クーデタ記念日にルイ=ナポレオンはサン=クルー城を出てパリに入り、ナポレオン3世として帝位に就き、第二帝政が始まった。

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皇帝ナポレオン3世

  皇帝即位時のナポレオン3世はすでに44歳になっていたが、彼はこの年になってもまだ結婚していなかった。第二帝政の正統性を確保するためには他のヨーロッパ君主家から皇后を迎える事が望ましかった。各国と折衝したが、クーデターによって皇帝に即位したという微妙な経歴が災いし、どこの君主家からも皇后を出すことを拒否された。

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ウジェニー皇后

 とはいえ、愛人ミス=ハワードと結婚するわけにもいかなかった。彼女は元娼婦であり、そのような女性を皇后に迎えたら国内外から笑い物にされるのは必定だった。結局貴族から皇后を見つけるしかなくなり、ナポレオンびいきだったスペイン貴族の娘であるエウヘニア=デ=モンティホ(フランス語読みでウジェニー=ド=モンティジョ)と1853年1月22日に婚約し、30日にノートルダム大聖堂において挙式した。

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ハリエット=ハワード 

 彼はこれを機にミス=ハワードを追い払おうとイギリスでの任務を与え、更にその留守を狙って彼女の家を家宅捜査させ、全てのラブレターを回収している。ミス=ハワードはこの処遇に怒り、ナポレオン3世から預かっていた私生児2人とともに宮廷を立ち去った。

 ウジェニー皇后は1853年2月末に懐妊したが、流産した。一方ナポレオン3世は新婚から3カ月とたっていないこの頃から再び漁色家に戻っていた。失意のウジェニーを気にする様子もなく、宮殿やの私邸に女優、女官、社交界の女性、高級娼婦などを続々と招いて放蕩生活を送った。

 一度は縁を切ったミス=ハワードともいつの間にかよりを戻していたが、その件についてはウジェニーも激怒し、ナポレオン3世が寝室に入ってくることを拒否するようになったため、ナポレオン3世はやむなくミス=ハワードをイギリスへ帰している。

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ナポレオン4世

 1856年3月17日、ウジェニーが待望の男子(ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ=ボナパルト、ナポレオン4世)を産んだ。ナポレオン3世はこれに大いに喜び、クーデターの際に投獄されたり、国外追放になった者たちのうち3000人ほどを対象に恩赦を行った。

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馬上のナポレオン3世

 ナポレオン3世の政治は、前半の1850年代の「権威帝政」といわれた権威主義的な独裁政治が前面に出た時期と、60年代の「自由帝政」といわれれた自由主義的な改革を採り入れた時期とに区分される。権威帝政の時期はクリミア戦争の勝利という外交の成功によって権威を高め、皇帝批判の言論や自由な政治活動を抑えることができたが、彼自身が亡命時代に共和政、自由主義、サン=シモン主義の洗礼を受けていた(当時ナポレオン3世は「馬上のサン=シモン」と言われた)こともあって、60年代から改革的な動きを示すようになる。それは1860年以降の議会での請願権を認めたこと、ストライキ権の承認、言論・結社の自由の一部承認などに現れた。

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第1回パリ万博「産業宮殿」

 ナポレオン3世は、帝政の基盤を強固なものにするために、民衆の支持を必要としていた。1851年のロンドン万国博の成功はナポレオン3世を強く刺激し、彼は「帝国の栄光という夢で国民を恍惚とさせること」の必要を直感的に感じ取り、それがミシェル=シュヴァリエに代表されるサン=シモン主義者の産業社会実現の夢と合致して、パリ万国博覧会が実施されることになったと言える。

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「産業宮殿」の内部

 この第1回のパリ万博は、パレ=ランデュストリ(産業宮殿)を本会場に、1855年5月1日に開催された。34カ国が参加し、会期中516万人が来場したが、1851年開催のロンドン万博の604万人には及ばなかった。

 しかし、産業機械を実際に動かして見せたり、生活関連展示を多くしたことにより、民衆に産業発展が生活向上に結びつくことを無意識のうちにすり込んでいく効果は十分にあった。それが1860年の英仏通商条約締結による自由貿易の実現に結びついた。この条約により
フランス産業はイギリス工業製品との競争にさらされ、手工業的中小企業は淘汰され、技術革新と資本の集中が一段と進み、銀行の設立・鉄道の普及などの金融・社会資本(インフラ)の整備も進んで、フランスの産業革命が完成した。

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第2回パリ万博の鳥瞰図

 シュヴァリエらは、サン=シモン主義のユートピアの実現を目指し、1867年のパリ万国博覧会を準備した。メイン会場はシャン=ド=マルスの丘に、巨大な楕円形の展示場が設けられ、テーマは同心円状に、国と地域は放射線状に配置され、産業の象徴でもある鉄と鉄鋼で造られた。まさにそれは「サン=シモンの鉄の夢」の実現であった。同時に宇宙と社会の縮図というコンセプトになっており、見学者は一体化した世界を実感できるしくみになっていた。

 
会場の周囲のレストランではボルドーのワインが評判を呼び(フランスがワイン輸出国としての名声が高まったのもこのときからである)、ドイツのビールも好評でフランス人にもビールを飲む習慣が始まった。またトルコのコーヒーや中国の茶などを味わうことができた。機械ギャラリーでは工業国が競って巨大な機関車や大砲を展示し、電信、ミシン、織機などの機械が実演つきで並べられた。

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各国から来た人々を歓迎するナポレオン3世

 1851年のロンドン、1855年のパリは万国と言いながら、実態はヨーロッパ諸国に過ぎなかった。しかし、1867年パリ万国博覧会は、参加42カ国。中近東、アジア、ラテンアメリカ諸国も参加し、名実ともに万国博覧会となった。日本は幕末の政治情勢が深刻であったが、薩摩・長州がイギリスの支援を受けていたのに対して幕府はフランスと結んでいたので、その要請を受けて展示を行い、将軍の名代として徳川昭武を使節とする代表団を派遣した。

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3人の柳橋芸者

  第2回パリ万博の各国パビリオンはさながら人種博覧会の観を呈した。江戸幕府は、浅草の商人瑞穂屋卯三郎が「水茶屋」を造り、柳橋の芸者かね、すみ、さとの三人が「髪は桃割れ、友禅縮緬の振袖に丸帯を締め、長いキセルで煙草盆の火をつけて煙草を吸ったり、手まりをついたり、客が望めばリキュールそっくりの味醂酒のお酌をしたり、茶を饗したりした」他にチョンマゲの男と作男姿の男二人が農作業をして見せていた。
 
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19世紀半ばのパリのシテ島

 ナポレオン3世は、若い頃からロンドンに倣ってパリ改造を意図していた。大統領就任直後に、パリ改造の構想をこう語っている。「パリはフランスの心臓である。この大都市を美化しその住人の境遇を改善し、……新しい街路を開こう、空気が通らず光の射しいらない人口の多い地区を清潔にしようではないか、太陽の恵み多い光がいたるところわれらの壁のなかにまで射し入るようにしようではないか。」

 当時のパリの都市衛生がいかにおぞましかったかは、当時の小冊子に次のように書かれている。

 「そこには百万人もの人間がひしめきあっている。空と言えば、煤煙から生じた健康に悪い臭気が立ちこめて、ほとんど太陽を覆い隠すほどである。この素晴らしいパリのほとんどの通りが悪臭にみち、じめじめした不潔な路地ばかりとなっている。……病を患い、やつれ果てた人々が、これらの路地を絶えることなく群れをなしている。歩けば汚水溝に足を突っ込みそうになり、鼻をつく病原菌の感染にさらされながら、どこを向いても実に厭わしいゴミの山ばかり……」

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バリケード

 ナポレオン3世にとっては貧民街は不衛生と犯罪、コレラとバリケードの巣窟以外のなにものでもなかった。1832年のコレラの大流行はもちろん、七月王政下の六月蜂起にいたる壮絶なバリケード市街戦などは、これらの都市環境と無縁ではなかった。

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ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマン

 麻痺した都市の機能を回復し、コレラとバリケードの病巣を取り除く。この厄介な外科手術に挑んだのが、ナポレオン3世とオスマンのコンビであった。1853年セーヌ県知事に登用されたオスマンは、皇帝の支持を背景につぎつぎと大規模な都市改造に着手した。

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オペラ通り

 彼はまず、市中心部の曲がりくねった街路やシテ島の貧民窟を一掃し、広い直線的な大通りを東西南北に貫通させ、道路交叉網を徹底的に整備した。また、ルーヴル宮や新オペラ座、中央市場といった公共建築を建造するとともに、街路照明を大幅に建設したりアパルトマンの高さを一定に規制するなど、都市景観にも細かく配慮している。暴動が発生した時に鎮圧部隊がすぐに現場に急行できるという治安維持の目的もあったが、クリーンな空気を街に供給する大きな森、公園もあちこちにつくられた。

 あの「ガス灯ゆらめくパリ」の基本的景観は、この第二帝政期に生み出された。1867年の万国博覧会に参加した幕府と薩摩のサムライ代表団を魅了したパリは、後世に評判芳しからぬナポレオン3世のこのパリだったのである。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/13 05:06 】

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