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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー捕虜になった皇帝・ナポレオン3世③

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ナポレオン3世

  ナポレオン3世の政治は、小農民層の支持を受けて大国フランスの威信を発揮することによって支えられていたので、対外戦争の連続であった。

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クリミア戦争

 まず皇帝となった翌1853年にはクリミア戦争を仕掛け、大勝して名声を挙げ、次いでサルデーニャ王国の首相カヴールとプロンビエールの密約を結び、オーストリアに宣戦(イタリア統一戦争)し出兵した。これは当時の大国オーストリアに対抗して、フランスの地位の復活を目指したものであったが、サルデーニャによるイタリア統一はローマ教皇の立場を弱めることになるので国内のカトリック教会は積極的ではなかった。

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ソルフェリーノの戦いの指揮を執るナポレオン3世

 1859年、ナポレオン3世はみずから大軍を率いて遠征し、マジェンタの戦いとソルフェリーノの戦いに勝利を収めた。もかかわらず、突如オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世と交渉して単独講和(ヴィラフランカの和約)に応じたため、サルデーニャの反発を買い、国内でもその一貫しない外交政策に批判が強まった。

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メキシコ皇帝マキシミリアンの処刑

 ナポレオン3世の外交政策の誤りがはっきりしたのが次のメキシコ出兵(1861~67年)であった。これはアメリカ合衆国の南北戦争に乗じてラテンアメリカに足場を築くことを狙ったものであったが、メキシコ民衆の激しい抵抗を受け、またアメリカの反発もあって撤退を決定、みずからがメキシコ皇帝として送り込んだマクシミリアンを見殺しにするという失態となった。

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アルジェリア独立運動家アブド=アルカーディルを引見するナポレオン3世

 この間、植民地の拡大につとめ、アジア方面でも中国とのアロー戦争、さらにインドシナ出兵に続くベトナムなどの植民地化を行った。他にもアフリカでのアルジェリアの反乱鎮圧、セネガルの獲得など、この時代にフランス植民地帝国が形成された。

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スダンの戦いのナポレオン3世

  当時ドイツの統一を目指して目覚ましく台頭したプロイセン王国のビスマルクは、フランスとの衝突を不可避として軍備を整えていた。スペイン王位継承問題で対立した両国は、ついに1870年、ビスマルクがエムス電報事件でナポレオン3世を挑発して普仏戦争の開戦となった。

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投降したナポレオン3世

 1870年9月3日、スダンのナポレオン3世からパリのテュイルリー宮殿のウージェニー皇后のもとに電報が届いた。

 「軍は敗れた。我が兵士たちの間で戦死することあたわず、軍を救わんがため、捕囚となる道を選んだ」

 ウージェニー皇后は一読するや顔面蒼白になり、わめき散らした。「なんで、自殺しなかったのよ、あの人は! 自分の名誉を汚すことになるのに気がつかなかったの? 息子に、いったい、どんな名前を残すつもりなの?」

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ガンベッタ

 9就き4日の朝、パリの民衆は「共和国万歳!」と叫んで立法議会になだれ込み、ガンベッタを議長席にあげ、帝政の廃止を宣言させ、パリ軍管区司令官ロンシュ将軍を首班とする臨時政府を成立させた。ウージェニーは宮殿から脱出しイギリスに亡命、その地から皇帝復位を画策したがいずれも失敗した。

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晩年のナポレオン3世

 捕虜となったナポレオン3世はカッセルの近郊で優雅な捕囚生活を送っていたが、その間、1871年1月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が即位、3月に正式に講和が成立した時点で解放され、イギリスに渡った。

 もとナポレオン3世、つまりルイ=ボナパルトとウージェニー、息子のルイの3人はドーバー海峡に面したヘイスティングスの郊外で生活、なおも本国のナポレオン派が帝政復活の策謀を計画したが、すでに持病が悪化して行動に移れず、1873年1月9日、64歳でこの世を去った。

 息子のルイはイギリス軍に志願し、1879年アフリカでズールー族との戦争に参加し23歳にして戦死した。彼には子がなかったためナポレオン3世の直系は絶えた。妻のウージェニーは1920年まで生き、94歳で亡くなっている。(おわり)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/17 05:04 】

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