なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦闘となったこの戦争は、ヨーロッパ中心部からは遠く離れたクリミア半島を戦場として行われたが、ヨーロッパでナポレオン戦争後、約40年にわたって続いた列強のバランスが、いわゆる東方問題の中で利害が対立したために起こった。
ギリシア独立戦争では共同歩調をとったロシア、フランス、イギリスであったが、ロシアが南下政策を強めた事に対し、他の二国がそれを阻止するために、「ヨーロッパの病人」といわれたオスマン帝国を助けることを口実に参戦したものである。
オスマン帝国はエジプト=トルコ戦争に敗れ、領土を失いつつあり、国力を回復するため、スルタン・アブデュル=メジト1世による上からの改革であるタンジマートが1839年から始まっており、その進行中であった。
オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。
まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレム(パレスティナ)の聖地管理権を要求し、それを認めさせた。ナポレオン3世が支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うためであった。
まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレム(パレスティナ)の聖地管理権を要求し、それを認めさせた。ナポレオン3世が支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うためであった。
パレスティナのイェルサレムはオスマン帝国領内に取り込まれていたが、その地の聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会などのキリスト教聖地の管理権は、オスマン帝国がフランスに対して認めたカピチュレーションを根拠に、16世紀以降、フランス王が持つようになった。
しかし、1808年、フランス革命の混乱の中でフランスが後退したすきに、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた。
しかし、1808年、フランス革命の混乱の中でフランスが後退したすきに、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた。
1852年、皇帝に就任した直後のナポレオン3世が聖地管理権を獲得することに成功すると、これに猛反発したのがロシアのニコライ1世であった。ニコライ1世はオスマン帝国に対し聖地管理権の復活と、ギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込んだ。
しかし、オスマン帝国はロシアの申し出を拒否。1853年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦、ロシア領ベッサラビアからオスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア公国・ワラキア公国のドナウ下流域に侵攻し、戦闘が始まった。
しかし、オスマン帝国はロシアの申し出を拒否。1853年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦、ロシア領ベッサラビアからオスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア公国・ワラキア公国のドナウ下流域に侵攻し、戦闘が始まった。
1854年3月、イギリスは戦争担当の内相パーマーストンが主導し、ナポレオン3世にはかり、オスマン帝国を支援するため参戦した。その意図は、ロシアがオスマン帝国を破って黒海から地中海方面に進出すれば、イギリスのインドなどアジア地域へのルートを断たれる恐れがあると危惧したからであった。
またサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦した。こうして戦争は、ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の図式となった。
1854年9月14日、フランス、イギリス、オスマン帝国、サルデーニャ王国の連合軍がクリミア半島に上陸した。フランス軍が3万2000、イギリス軍2万6000、オスマン軍7000、さらにサルデーニャ軍1万5000を数え、対するロシア側のクリミア防衛軍は約5万人であった。
この時、セヴァストーポリ要塞は、ほとんど無防備の状態だった。緊急に、長い要塞線が建設された。また、何隻かの軍艦を沈めて港湾への入り口を塞いだ。
この時、セヴァストーポリ要塞は、ほとんど無防備の状態だった。緊急に、長い要塞線が建設された。また、何隻かの軍艦を沈めて港湾への入り口を塞いだ。
連合軍の司令部は、1週間でセヴァストーポリを奪取することを計画していたが、11カ月間持ちこたえた。都市の守備隊には、黒海艦隊の水兵だけでなく、市民も加わった。戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出した後、ようやく1855年9月8日、戦略拠点として知られるマラホフ砲台が占領され、349日間に及んだ籠城戦に終止符が打たれた。
ロシアの勢力圏であったクリミアで、遠くからの遠征軍であるイギリス・フランス連合軍にロシア軍が敗れてしまったのは、軍の組織や装備の古さだけでなく、鉄道が未発達など、近代化の遅れに原因があったことがあげられている。
ロシアの勢力圏であったクリミアで、遠くからの遠征軍であるイギリス・フランス連合軍にロシア軍が敗れてしまったのは、軍の組織や装備の古さだけでなく、鉄道が未発達など、近代化の遅れに原因があったことがあげられている。
26歳の青年トルストイは、砲兵少尉としてセヴァストーポリ要塞の激戦に参加した。その時の体験をもとに発表したのが『セヴァストーポリ』である。そこには生々しい戦場体験が物語られており、その筆力は当時大いに称讃され、彼のデビュー作となった。
3つの短編から構成されており、第1編はいわば戦場ルポルタージュで、負傷者のうめきが充満する繃帯所が描かれている。第2編は爆弾が目の前で爆発するわずか1秒の間の心の葛藤を描き、第3編で愛国心から戦場に来た青年将校兄弟が、フランス軍の総攻撃に遭う……いう内容になっており、早い時期に近代戦争の真実を描いたものとして重要である。
3つの短編から構成されており、第1編はいわば戦場ルポルタージュで、負傷者のうめきが充満する繃帯所が描かれている。第2編は爆弾が目の前で爆発するわずか1秒の間の心の葛藤を描き、第3編で愛国心から戦場に来た青年将校兄弟が、フランス軍の総攻撃に遭う……いう内容になっており、早い時期に近代戦争の真実を描いたものとして重要である。
「この戦争は、実にひどい条件の中で戦かわれた、とびきりひどい戦争だった。連合国側が優勢だったけれど、損失は大きかった。ある時など、軽装軍団の司令官カーディガン卿が、バカだからバラクラバの戦いで、銃剣と大砲の弾のどっちが強いか、試してやろうと思ったんだ。おかげで何千人ものイギリス兵が、とんでもない目にあった。殺されなかったものも、食糧不足と、凍りつくような寒さとで、ひどい苦しみを味わった。馬でさえ、着るものがなくて(ああ!)死んじゃったんだから。さらに追い討ちをかけたのがコレラの流行で、死者は、一日百人を上まわった。」
ここに出てくるカーディガン卿がどんな狂気の指揮をしたか、そしてその戦争がどんな悲惨な結末となったかを描いたのが、1968年のイギリス映画、トニー=リチャードソン監督の『遙かなる戦場』。名優トレバー=ハワードがカーディガン卿を快演している。
なお、このカーディガン卿、名前の通り、カーディガンを発明した人。何でも、戦場で怪我をした兵士に着せる簡便な医療用として発案したらしい。セーラー服(水兵服)とカーディガンは、ともに戦場で生まれたファッションアイテムである。(つづく)
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なお、このカーディガン卿、名前の通り、カーディガンを発明した人。何でも、戦場で怪我をした兵士に着せる簡便な医療用として発案したらしい。セーラー服(水兵服)とカーディガンは、ともに戦場で生まれたファッションアイテムである。(つづく)
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