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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドークリミアの天使と悪魔・クリミア戦争②

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フローレンス=ナイティンゲール

 フローレンス=ナイティンゲールは名前の通りフィレンツェで生まれたが、両親はイギリス人で、2年も続いた長い新婚旅行の途中だった。父のウィリアムはジェントリ階層で財産家だったので、イギリスに戻ったフローレンスも何不自由なく生活することができた。父と母は彼女を社交界にデビューさせ、幸せな結婚をさせることを望んだが、一風変わった少女であったフローレンスは17歳の時「神のお告げ」を受けたと言い出し、貧しい人たちの役に立つ生き方をぼんやりとだが考えるようになった。やがてこの親子のズレは決定的になっていく。フローレンスが看護婦になりたいと言い出したのだ。

 看護婦といっても現在のようなイメージではない。1840年代のイギリスでさえ、まだ看護婦の仕事は確立していなかった。看護婦どころか、現在のような病院も存在していなかった。上流階級の人々が病気になれば医者が家まで来て診察し、家で療養し、亡くなっていたし、都市の下層階級の人々には家で看病する人がいなければ病院に入ることになるが、それは粗末なベットがぎっしりと並び、風通しが悪く、暖房もない建物で、衛生状態は極端に悪かった。つまり病院は極貧の人が最期に収容されて死を待つところにすぎなかった。

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ロンドンにあるナイティンゲールの銅像

 看護婦はいたが、彼女たちは私生児を産んだり何らかの事情で家を出た人たちであり、病院に住み込んでいた。彼女たちの仕事は看護というより売春だった。患者たちはアルコールで憂さを晴らし、女を巡って争った。ロンドン警察は病院での殺人や争いをなくすために作られた。ナイティンゲールのような上流の女性が看護婦になるなど、考えられない時代だったのだ。

 彼女は両親や周辺の強い反対を押し切って、看護婦になろうとしたが、その道も開けず悶々とした青春を過ごした。美しかった彼女にはジェントルマンの青年の何人かが結婚を申し込み、彼女も好意を持った男性もいたが、彼女は結婚しなかった。断わられた青年の一人はその後自殺したという。彼女は看護婦となって医療を改革しようと決心し、その結果、生涯を独身で通すこととなる。


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クリミア戦争

 彼女が初めて本格的に看護の経験を積んだのは、30歳の時、単身ドイツに行ってカイザーヴェルトの病院においてであった。紆余曲折の後、33歳となった1853年、ロンドンのハーリー街の病弱貴婦人のための療養施設で本格的な看護の仕事を開始した。

 翌1854年、イギリスがクリミア戦争に参戦すると、ロンドンの新聞タイムズが連日戦場の悲惨さを伝え、義捐金を募集し始めた。世論に押されて政府は義捐金を元に看護婦を派遣することにし、ナイティンゲールはそれに応募し、修道女と看護婦の総数38人の看護団を組織して、イスタンブールに向かった。ナイティンゲール自身は国教会信徒であっても宗教には寛容であったが、参加したカトリック修道女の中には看護よりも伝道を使命と考える者もいて、彼女はメンバーをまとめることに苦労することとなる。

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兵舎病棟

 看護団は11月にイスタンブルに着き、対岸のスクタリの兵舎病院に入った。近くに陸軍病院があったが、9月にクリミアから送還されたコレラ患者で一杯になり、急遽ょトルコ軍砲兵隊の兵舎を転用し、10月末のバラクラヴァの戦闘で負傷した兵士を収容するために作られた兵舎病棟だった。急な険しい山道をのぼったところにあり、病院とは名ばかりの荒れはてた建物で、しかも周りにはテントや掘立小屋が立ち並んでいた。それらは兵士たちをあてこんだ飲み屋や売春宿だった。兵舎の部屋は掃除もされず、ノミがはね、ネズミが走り回り、ある部屋にはトルコ兵の死体が放置されていた。

 しかし、現地にはさらに大きな敵が存在していた。それはロシア軍ではなくイギリス陸軍だった。イギリス陸軍は最初から戦場に看護婦を派遣することに大反対だった。理由は単純で、軍隊の気風が乱れる、ということにあった。そのため現地の将軍もナイティンゲールたちに冷淡というよりも拒絶の態度を隠さず、初めは彼女たちの看護活動を許可しなかった。病棟に前線から負傷兵が担ぎ込まれるようになっても、看護活動が認められないので、ナイティンゲールたちは病棟の掃除や三角巾を作る仕事くらいしか与えられなかった。

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傷病兵を看護するナイティンゲール

 ところが、戦況の悪化から戦傷者は増える一方であった。ナイティンゲールが冷静に観察すると、兵士のほとんどは戦場の怪我で死ぬのではなく、病院の手当が行き届かず、その環境の悪さから死んでいくのがほとんどだった。陸軍の軍医もついにおれてナイティンゲールたちの看護活動を認めた。

 それからのナイティンゲールの献身的な看護は、後世の語りぐさになるものだった。まずスクタリのシラミとノミ、ネズミの巣だったバラック病院を清潔にし、壁を白いペンキで塗り、風通りをよくして菌の繁殖を防いだ。看護婦たちには茶色い制服と白い看護帽をかぶせた。病院の内外にいる売春婦(兵士について歩き、生きるために売春する女たち)と区別するためだった。また、協力者を得て、彼女たちに仕事を与えるように援助した。またロンドンから志願してきた腕利きの料理人に頼んで病院の食事を一変させた。こうして白いシーツの上で横たわり、熱いスープを口にした兵士たちは、戦場から天国に来た思いを抱いたのだった。

看護婦として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年) 
見回りをするナイティンゲール

 タイムズ紙の基金責任者で彼女の協力者であったマクドナルドは書いている。

 「(いささかの誇張でもなく、病院の中で)彼女は〝世話をする天使〟です。彼女のすらりとした体が、病棟を静かにすべるがごとくに通っていくと、すべての気の毒な人たちの顔が彼女を見て、感謝の思いでやわらぐのです。軍医たちが、夜になってみんな引き上げてしまい、静かさと暗さが数マイルに及ぶ打ちのめされた病人たちのベッドをおおうしじまの中で、フローレンスがただひとり、小さいランプを手にして、ひとりぼっちの見回りをしているのが見られるでしょう。」

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アンリ=デュナン

 ナイティンゲールの活動に刺激を受け、国際的な救援機関として国際赤十字社の設立を提唱したのがアンリ=デュナンである。1859年6月、イタリア統一戦争の時、北イタリアのソルフェリーノでサルデーニャ・フランス連合軍とオーストリア軍が衝突した。その時、ジュネーヴ出身のデュナンが従軍し、戦死者や負傷者が放置されている悲惨な現実を見、その体験を1862年に『ソルフェリーノの思い出』として書き、敵味方を越えた負傷兵の救援団体の必要を世に問うた。

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それがきっかけとなり、1864年にデュナンの呼び掛けで国際赤十字運動が始まった。スイス連邦政府が後援し、ヨーロッパ116カ国とアメリカ合衆国の署名を得た「ジュネーヴ協定」ができ、国際赤十字が誕生した。設立へのスイスの功績を認めて、赤十字の旗はスイス国旗の赤地に白十字を裏返したマークに定められた。

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赤新月旗
 
 ただし、イスラーム圏の諸国が赤十字に参加するようになると、十字に対する反感からこれらの国では赤新月旗を用いている。


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シュリーマン

 一方、この戦争で「死の商人」としてボロ儲けしていた人物が二人いる。一人がトロイアの発掘で有名なドイツ人のシュリーマンだ。トロイア発掘はクリミア戦争でロシアに武器を密輸して得た巨額の資金で行われたことを知る人は少ない。

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ノーベル

 もう一人がダイナマイトの発明で有名なアルフレッド=ノーベルの父イマニュエル=ノーベルだ。彼はクリミア戦争の際機雷の製造で大儲けをした。ところが1853年の戦争終結と同時に注文が止まり、逼迫した末に破産。しかし、それでも息子のアルフレッドは父の事業と同じ爆弾製造の研究の道に進み、1867年にダイナマイトの発明に成功する。彼はダイナマイトを武器として各国に売り込み富を築き、「地上で最も危険な男」と言われた。

 彼の遺言により1901年からノーベル賞の授与が始まったが、第1回平和賞を受賞したのは国際赤十字社の設立を提唱したディナンであった。(おわり)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/24 05:05 】

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