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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドースエズ運河を盗れ・ディズレーリ

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ディズレーリ

 ベンジャミン=ディズレーリは1804年に、イタリア系ユダヤ人の文筆家アイザック=ディズレーリの長男として生まれた。13歳の時に父親のすすめでイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし事務所の業務に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。22歳の時に処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になったが、激しい批判を集めた。

 その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば下院議員選挙に出馬するようになり、4度の落選を経て、1837年の解散総選挙で初当選を果たした。

 急進派からトーリー党(保守党)に転じたため無節操を非難された。ピール党首とは政治的立場を異にし、党内に「青年イギリス」を組織する一方、政治小説の形で「トーリー民主主義」を主張。またピールの産業資本家的保守主義に対する地主的保護貿易主義に立って穀物法廃止に反対した。

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ダービー首相

 1852年、ダービー保守党内閣の蔵相として初の入閣を果たした。1858年に第2次ダービー内閣が成立した際にも蔵相となり、保守党の指導者としての地位を固めるとともに、翌1859年穏健な内容をもつ選挙法改正を提案した。この提案は議会で敗れ、総選挙後、自由党内閣が誕生した。1866年、自由党内閣の選挙法改正法案を否決に追い込み、第3次ダービー内閣の蔵相として返り咲くと、翌1867年には第2回選挙法改正を保守党政府の手で実現した。この歴史的な難問解決の主導権を保守党の手で握り、1846年の穀物法廃止以来、万年少数党の立場に置かれてきた保守党の起死回生を図ろうとしたのである。

 都市労働者に選挙権を与えたこの改革は「暗中飛躍」とよばれる大胆なもので、大衆民主政治の出発点となった。大衆との一致を目ざした青年イギリス派の「トーリー・デモクラシー」の理念が実現をみたともいえよう。

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グラッドストン

 1868年、第1次ディズレーリ内閣を組閣したが、それはアイルランド問題で暗礁に乗り上げ、すぐに辞任して短命に終わった。その後、第1次グラッドストン自由党内閣が様々な改革を行ったが、1874年の選挙は変化を望んだ選挙民に指示され、第2次内閣を組織することとなった。

 自由党のグラッドストンは好敵手であり、交互に政権を担当して二大政党制を展開したが、それは新たな選挙法で選挙権を獲得した都市労働者の大票田をどちらが獲得するか、という競争であった。

 ディズレーリの第2次内閣では、労働者の支持を得るためもあって、公衆衛生法や労働組合法など社会政策に力を入れ、この保守党の労働者よりの政策は「トーリ=デモクラシー」と言われた。しかし、ディズレーリ内閣の特質はその外交政策に現れる。

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スエズ運河開通式

 1869年11月17日、スエズ運河開通式が華々しく挙行された。エジプト副王イスマイール=パシャは、この栄えある開通式に、ヨーロッパ諸国の元首と名士を招待した。オーストリア皇帝やフランス皇后らを乗せた80隻の船が、前日の朝ポートサイド沖に着いた。

 17日午前8時、大砲が鳴り、汽笛がエジプトの空に吸い込まれ、フランス船を先頭に48隻の各国の船が、ポートサイドから運河に入る。フランス船には、ナポレオン3世の皇后ウジェニーが、頬を上気させて甲板に立つ。同時刻、スエズからはエジプトの軍艦が運河に入る。北と南からの船は、中間地のチムサ湖で一緒になった。その夜は、湖近くに新設された都市イスマイリアで、6000人の人々を集めて大祝賀会が催された。

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レセップス

 イスマイル=パシャとレセップス、そしてフランスは、その日、栄光の絶頂にあった。

 フランス人レセップスはかつてのナポレオンの構想などに刺激を受け、スエズ地峡への運河敷設を1854年にエジプト副王サイードに提案した。レセップスは外交官としてエジプトに滞在したことがあり、サイードとも親しかった。

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サイード=パシャ

 当時エジプトは、宗主国であるオスマン帝国から自立する道を模索していたので、副王サイードはレセップスに許可を与え、同年12月にレセップスとの間で契約を取り交わし、「国際スエズ運河会社」を設立、フランスとエジプトが株を引き受け、エジプトは毎年その利益の15%を受け取ることとした。

 スエズ運河建設はエジプトにとって最も重要、かつ問題の焦点となる施設であったが、イギリスは運河建設の先進国でありながらこの運河開削は不可能と判断し、インドからの物資は紅海からスエズに陸揚げし、鉄道を建設してカイロ-アレキサンドリアに運ぶことを考えていたのでレセップスの構想には乗らなかった。工事が進むと、イギリスは宗主国のオスマン帝国を動かし、その同意がないとして盛んに工事の進捗を妨害しようとした。

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工事中の写真

 建設工事は1859年に着工。掘削工事は4万人のエジプト農民が動員され、無償労働で行われた。しかし、工事は難航を極め、2万人の死者を出して、ようやく1869年に完成した。地中海側の入り口には新たに港が建設され、副王サイードの名からポートサイドと命名され、中間地点にもイスマイリア(次の副王イスマイールの名から命名された)というあたらしい都市が建設された。

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ヴィクトリア女王

 あれほど反対していたイギリスであったが、スエズ運河が完成し、喜望峰まわりの半分の距離でインドに達することが出来るようになった今、これまでのような態度をとり続けるわけにはいかなくなった。1870年、レセップスはロンドンで大歓迎を受け、ヴィクトリア女王から叙勲された。また、スエズ運河を利用する船舶も、毎年一番多いのはイギリス船であった。

 そこで、イギリスは運河会社の株を買い入れるチャンスが到来するのを虎視眈々と狙っていたのだが、そのチャンスは劇的なかたちでやって来た。エジプトのパシャが持ち株を売りに出したのである。

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イスマイール=パシャ

 パリで法律学を学んだことのあるイスマイールは、エジプトの「文明開化」に熱心であった。行政・司法・法律の整備に努め、鉄道・運河・電信の建設に熱中し、カイロやアレクサンドリアにガス燈をともしてフランス風の都市にした。他方、領土を広げるため、スーダンその他へ遠征軍を送るなど、軍事的膨張も忘れなかった。

 しかし、こういう事業には、イスマイールのまわりで利権を狙う、ヨーロッパの銀行家などの入れ知恵や投資が働いていた。事業が増えるとともに、エジプト政府の負債はかさむいっぽうであり、1873年にはその額が約6850万ポンドにものぼった。人口550万のエジプト国民が、50%も引き上げられた税金を翌年分まで支払っても、大半は負債の利子となって消えてしまうありさまであった。

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ナポレオン3世

 とうとうイスマイールは、負債を返す資金を得るため、1875年11月、スエズ運河運河会社の株17万6602株を売り出すことにした。この意向が、レセップスを通じてフランス政府に伝えられた。だが、フランスの事情は、スエズ運河開通1年後に大きくかわってしまっていた。

 1870年7月、ナポレオン3世はプロイセンと開戦したが大敗し、9月、帝位を退いた。フランスは第三共和政になったが、プロイセンのビスマルクは追撃の手を緩めず、結局、フランスは降伏して賠償金50億フランを支払わされることになった。

 レセップスを支えた皇帝はもはやなく、フランスの政情は5年後になってもなお不安定であった。こういう中では、巨額のエジプトも持ち株を買い取る余裕はどこにもなかった。

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ライオネル=ロスチャイルド

 1875年11月14日、日曜日の夕刻、ロンドンのライオネル=ロスチャイルド邸では、首相ディズレーリがライオネルと夕食をともにしていた。ロスチャイルド家は、パリ、ウィーンにも同族の商会を持つユダヤ人の大富豪であり、ユダヤ系のディズレーリ首相とライオネルとは親しい仲であった。

 ちょうど食事にさしかかった時、お盆に電報を載せて執事が入って来た。ライオネルは電報にすばやく目を通すと、一息いれてから、ディズレーリに向かって電文の要点を読み上げた。

 「エジプト=パシャはフランス政府に運河会社の株の売却を申し込んだが、フランス側はその条件をのむにいたっていない」

 ロスチャイルド家がパリに置いている情報提供者からの電報であった。

 首相は間をおいてから一言、「いくら?」と聞く。

 ライオネルはすぐパリ宛に問い合わせの電報を打った。

 二人とも食欲がなくなり、デザートもそのままさげられた。ブランデーを飲むことになった時、また電報を乗せたお盆が運ばれて来た。パリからの返事には、1億フラン(400万ポンド)と記されてあった。

 「よし、買おう」と首相は言った。ライオネルは「そう……」とだけ呟いた。

 翌月曜日、ディズレーリは首相官邸で閣議を開いた。議会は休会中のため予算として通すことは出来ない。ディズレーリはロスチャイルド家から借用することに決め、閣僚の委任を取り付けた。そのあと直ちに秘書の馬車がライオネルのもとに走った。首相からの伝言は短かった。

 「政府は明日までに400万ポンドを是非とも必要としております。よろしく。」

 ちょうどマスカットを食べていたライオネルは、この伝言を聞き、1粒を2秒で食べ終わると答えた。

 「よろしい、ご用立てしましょう。」

 そして、上品に種子をはき出した。

 48時間後には、パシャ所有のスエズ運河会社の株はイギリス政府の所有に移った。

 こうして、イギリスは、本国とインド、いや西洋とアジアを結ぶ正規の大動脈を手に入れてしまった。

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『パンチ』の風刺画

 ついで翌1876年3月、ディズレーリはヴィクトリア女王にせがまれて国王尊称法を成立させ、彼女をインド皇帝に推戴した。自由党はこれに反対し、外国の外交官たちはこれを笑ったが、帝国と君主制の象徴的効果を信ずるディズレーリにとって、インドを帝国化しこれを王冠と結びつけることはきわめて有意義な帝国統合化政策であった。この小説家でもあるユダヤ人宰相の帝国主義には、このように個人プレー的で情緒的なところがあり、それが彼の帝国主義の一特色であった。

 なお、デズレーリは歴代首相の中で、ヴィクトリア女王にもっとも愛された総理大臣であった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/11/27 05:07 】

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