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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー偉大なる老人・グラッドストン

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グラッドストン

 ウィリアム=グラッドストンは1809年にリヴァプールで生まれた。父親は大富豪の貿易商人で、トーリ党議員も努めていた。11歳で名門イートン校に入学したが、後の政治家としての素質もこの時代から多く見せており、13歳の時に教師を相手にその不正義を追及している。

 18歳でオックスフォード大学に進むと、ギリシアの古典研究に熱中し、学生自治会の議長を務めた。卒業後、兄と一緒にヨーロッパ旅行(グランドツァー)を経験したあと、1833年、23歳でトーリ党ピール派の議員となった。

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キャサリン

 グラッドストンは1838年8月に再びイタリアを旅行し、ローマでキャサリン=グリンと知り合い、彼女と交際するようになった。1839年1月3日、月夜の夜にグラッドストンはコロッセウム遺跡で彼女に告白したが、彼女は返事をせず、その場を立ち去ってしまったという。

 すでに2回振られた過去があったグラッドストンは「また振られた」と思い意気消沈したが、後日キャサリンから「貴方の申し出を受けるにはもう少しお互いをよく知らなければなりません」という手紙が送られてきて、交際を継続できたという。

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結婚式を挙げたハワーデン城

 結局キャサリンがグラッドストンの求婚に応じたのはこの6カ月後の6月8日になってだった。その時の会話でキャサリンはグラッドストンがしばしば目上の者に対して使う「サー」という呼びかけは自分たちの階級では使わなくなっていることを指摘してくれたといい、これにグラッドストンは「自分の欠点を補ってくれる理想の女性が見つかった」と非常に喜んだという。

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晩年のグラッドストンとキャサリン

 二人は1839年7月25日にハワーデン城で挙式した。キャサリンの兄サー=ステファン=グリン准男爵は病身で結婚しないまま没したため、後にハワーデン城はグラッドストン夫妻が相続し、夫妻はそこで暮らすようになる。

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アヘン戦争

 グラッドストンが結婚した翌1840年にアヘン戦争が勃発する。4月8日、弱冠30歳の野党のヒラ議員であったグラッドストンが、ホィッグ党政権のパーマーストン外相の対中国外交を批判する演説を行った。それはアヘン戦争の開戦の是非を採決する前に行われた。

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 「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない。今私と意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちて翻った英国旗について言及された。だが、その旗こそは、悪名高い禁制品の密輸を保護するために翻ったのである。現在中国沿岸に掲揚されているようにしか、その旗が翻らないとすれば、われわれはまさにそれを見ただけで恐怖を覚え、戦慄せざるを得ないであろう。……確かに
中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度をこしています。しかし、正義は中国人の側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人の側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。」

 しかし、採決の結果は、開戦賛成(政府支持)は271票、反対は262票、たったの9票差でイギリスはアヘン戦争に突入することとなった。

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穀物法反対同盟の集会

 グラッドストンは大学開学以来と言われた雄弁で政界に頭角をあらわして、ピール内閣のもとで商務大臣・植民大臣を務めた。しかし、穀物法廃止法案を1846年5月に下院で成立させたピールは、以後「ピール派」を結成してトーリー党を離脱したが、グラッドストンもこれに追随した。以後、次第に自由主義的傾向を強め、1859年に正式に自由党が結成された際にグラッドストンも自由党議員となった。

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第1次グラッドストン内閣の閣議

 1867年にラッセルが引退してからは自由党党首として前後4回首相を務め、保守党のディズレーリを好敵手として議会政治の全盛期を飾った。

 その業績は、イギリス国教会からのアイルランドの解放・アイルランド土地法による小作農の保護・小学校の義務教育制度・無記名投票制・第3回選挙法改正による農業労働者への選挙権拡大など、自由主義政策を実行したことにある。

 平和外交を唱えたが、南アフリカやアイルランド・スーダンでの反乱には帝国主義的対応を余儀なくされた。

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アイルランド自治法案を提出するグラッドストン

 アイルランド問題解決は一貫して彼の課題だった。アイルランドの自治権拡大を主張するアイルランド国民党が第3次選挙法改正によって議席を増大したのを受けて、アイルランドに議会開設を認めるなどの第1次アイルランド自治法案を提出した。

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ジョゼフ=チェンバレン

 しかし、自由党内のジョゼフ=チェンバレンらがアイルランドの自治に反対して脱党し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。保守党も自治に反対したため法案は議会でも否決された。1886年7月の総選挙でもグラッドストン自由党は敗北し、第2次ソールズベリ保守党内閣に交替した。自由党は単独では過半数がとれず、アイルランド国民党と連立する道を選択する。

 1892年8月の総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドストンは82歳となっていたが首相となった。4度めの組閣、82歳の年齢のいずれもイギリス史上初のことで「老大人 Grand Old Man」と言われた。翌年9月、グラッドストンは新たなアイルランド自治法案を議会に提出、下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の反対で、大差で否決されてしまった。グラッドストンは上院改革を断行してでも法案を通すつもりであったが、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳で辞任した。

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死の数日前に描かれたグランドストンの肖像

 1897年11月にカンヌ滞在中に喉頭癌の最初の激痛に襲われた。カンヌは地中海から寒風が吹くことがあったため、周囲の薦めでイギリスのハワーデン城へ帰国した。

 
1898年初頭から体調が悪化した。5月に入るとすっかり精力が衰え、5月13日にローズベリー伯爵とモーリーが見舞いに訪れた際にはほとんど意識不明になっていたという。

 
5月15日に娘メアリーが「教会へ行ってきます」と述べた際にグラッドストンは「教会へ行くのか。素晴らしいことだ。愛するメアリーよ。私のために祈ってくれ。全ての同胞のために。全ての不幸で惨めな人々のために。」と呟いたという。

 
5月19日午前4時頃、夫人と子供たちが見守る中、また聖職者である次男スティーブンが祈りをささげる中、グラッドストンは眠るように死去した。享年88歳。

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ウェストミンスター寺院にあるグラッドストンの墓

 グラッドストンの遺体は棺に入れられた後、25日にロンドンに送られてウェストミンスター宮殿に安置された。一般国民の告別も許可された。棺の中には、彼が最後の力を振り絞ってトルコの暴政から守ろうとしていたアルメニアの教会から贈られた金の十字架が一緒に入れられた。

 28日にグラッドストンの棺は葬列に伴われながらウェストミンスター寺院へ運ばれた。皇太子、ヨーク公、ローズベリー伯爵、首相ソールズベリー侯爵らが葬列に参加した。棺はウェストミンスター寺院の北側外陣の床に作られた墓所の中に入れられた。妻キャサリンは子供たちに支え起こされるまでその前に跪いて祈り続けたという。

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ヴィクトリア女王

 弔辞は世界各国から届いた。ヴィクトリア女王もグラッドストンへの弔辞を書いて新聞に掲載するよう周囲から求められたが、拒否している。また皇太子がグラッドストンの葬儀に参加したと聞いた女王は問い詰めるような電報を皇太子に送っている。

 女王はグラッドストンのことは嫌っていたが、グラッドストン夫人のことは気にかけており、彼女に宛てて弔電を送っている。しかしそこでも「私は、私自身と私の家族の幸福に関することへの彼の献身と熱意を忘れません」という表現に留め、グラッドストンの国家への貢献を認めることはなかった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/12/01 05:15 】

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