なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ヴィクトリアは1819年5月24日にロンドンのケンジントン宮殿で生まれた。彼女の全名はアレクサンドリナ=ヴィクトリアで、イギリス人には馴染みの薄いロシア語とドイツ語の名前であるが、彼女が長期間在位したことによってヴィクトリアはイギリス人の名前として定着した。
父親はハノーファー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子のケント公エドワード。3人も兄がいれば、自分の将来はどっちみち見えている。しかし、父エドワードの心には、あるジプシー女の占い師の言葉が妙にひっかかっていた。
父親はハノーファー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子のケント公エドワード。3人も兄がいれば、自分の将来はどっちみち見えている。しかし、父エドワードの心には、あるジプシー女の占い師の言葉が妙にひっかかっていた。
「あなたはこれから幾多の苦難にあわれることでしょう。しかし死ぬときには幸福です。あなたの娘が偉大な女王になられるからです。」
ただどう考えてみても、娘とイギリスの王位との間には、あまりにも隔たりがありすぎる。父の胸中は穏やかではなかった。ヴィクトリアが生まれて8ヵ月、父エドワードは肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。そしてその6日後には、晩年は精神錯乱に陥っていたジョージ3世が亡くなり、摂政王太子ジョージがジョージ4世として即位した。1820年1月のことである。
ただどう考えてみても、娘とイギリスの王位との間には、あまりにも隔たりがありすぎる。父の胸中は穏やかではなかった。ヴィクトリアが生まれて8ヵ月、父エドワードは肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。そしてその6日後には、晩年は精神錯乱に陥っていたジョージ3世が亡くなり、摂政王太子ジョージがジョージ4世として即位した。1820年1月のことである。
1830年6月、ジョージ4世が子のないまま崩御した。国王の次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、3弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世として即位した。ウィリアム4世は即位時すでに65歳であり、新しい嫡出子を儲けることはほとんど諦めており、ヴィクトリアが「暫定王位継承者」に認定された。1837年6月20日、ウィリアム4世が老衰で亡くなると、占い師が予言したとおり、王冠はヴィクトリアのもとに転がりこんできたのである。このとき彼女はまだ18歳であった。
運命のいたずらは彼女を、「世界の工場」という地位を固めつつあった最盛期のイギリスの王座につかせたのであった。
金髪で桜色の頬をした若き女王は、即位当初から国民の熱狂的な歓迎を受けた。初々しく控えめな少女だったことだけがその理由ではない。人々がヴィクトリアを慕ったのは、まず何よりも彼女の「きまじめさ」であった。王室に清潔な道徳的イメージを抱いていたイギリス人はそれまで誰一人いなかったと言ってよい。国王一族といえば、スキャンダラスな異性問題や金づかいの荒さが連想されるのが常だった。
しかし、ヴィクトリアは王室始まって以来の優等生であると言えた。幼い頃からきかん気で、思い込んだら夢中になる性分から、周囲を手こずらせることはあったにせよ、彼女は王たる者の義務を体得し、なおかつそれを衆目の見守るなかで威風堂々と「見せる」天性が備わっていたらしい。
国民にとっての女王像は、即位3年目に最愛の夫アルバート公を迎えたことで一層親しみを増した。アルバート公は、ドイツ人で女王と同い年のいとこにあたる。ヴィクトリアは17歳のとき、このハンサムでやさしい、「うっとりする」ような表情をするいとこにひとめぼれをした。その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛している。
アルバート公もまた、派手な社交生活は肌に合わぬという謹厳な性格で、女王にとってはまたとない伴侶であった。
ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にロンドンのセント=ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のベルギー王レオポルドへの手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。
ヴィクトリア女王は、当時はウェディングドレスとしては使用されることが稀であった白をドレスの色に選んだ。 白い花嫁衣装はファッションに敏感な当時の富裕層の花嫁たちにすぐに取り入れられた。『ゴーディズ・レディズ・ブック』はヴィクトリア女王の結婚式からの約10年後、ヴィクトリア女王の結婚以前では、白いウェディングドレスは稀にしか選ばれなかったにもかかわらず「素材は何であるにせよ花嫁が白を着る慣例はすぐに確立された。それは少女時代の純粋さ、無垢、そして、結婚する相手として選ばれた一人にだけ与える穢れ無き心の象徴なのである」と評している。
ヴィクトリアとアルバートは生涯仲睦まじい夫婦であり続け、4男5女の9人の子供を儲けた。国民の多くは、このロイヤル・カップルに初めて理想の夫婦・家庭像を見出した。アルバート存命期のヴィクトリアの絵画や写真はほとんどの場合アルバートや子供たちと一緒に映った物である。ヴィクトリア自らがこうした「幸せな王室一家」の構図を描くよう指示したという。
こうした家族団欒の光景は、資本主義の発展で貴族に代わって台頭した中産階級の道徳・価値観に沿うものであり、王室は中産階級の賛美の対象となっていった。ヴィクトリア朝の中産階級では、女性が働くことは下層民への転落の証として忌避され、結婚して家庭に専念することが女性の理想像とされていたのである。
こうした家族団欒の光景は、資本主義の発展で貴族に代わって台頭した中産階級の道徳・価値観に沿うものであり、王室は中産階級の賛美の対象となっていった。ヴィクトリア朝の中産階級では、女性が働くことは下層民への転落の証として忌避され、結婚して家庭に専念することが女性の理想像とされていたのである。
1861年、アルバート公が腸チフスのため42歳で急逝した。ヴィクトリアは冷たくなった夫の手をしばらく握り続けていたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れたという。
ヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルドに宛てて「生後8カ月で父を亡くした赤ん坊は、42歳で打ちひしがれた未亡人となってしまいました。私の幸せな人生は終わりました。私がまだ生きなければならないとしたら、それは父を失った哀れな子らのため、彼を喪うことで全てを失った我が国のため、また私だけが知る彼の希望を実現するためです。彼は私の傍らにいつもいてくれるのです。」と書いている。
ヴィクトリアの悲しみは深く、その後彼女は10年以上にわたって隠遁生活を続けた。アルバートを失った後のヴィクトリアの長い喪服も当時の未亡人の理想像といえるものであり、喪服によって王室に親近感を持つ国民も少なくはなかったのである。
ヴィクトリア女王は5人の娘達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、40人の孫、37人の曾孫が誕生し、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。例えば、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラ(ニコライ2世妃)は孫にあたる。のちの第一次世界大戦は女王の子孫の間で戦われることになる。
ヴィクトリア女王の子孫の男子は血友病を発症して苦しむ者が多かった。恐らくヴィクトリア女王が血友病の因子を持っていたことが原因と考えられている。ヴィクトリアの4男レオポルドは血友病で苦しんだ。2女アリスと5女ベアトリスも血友病の因子を持っており、アリスを通じてロシア皇室ロマノフ家、ベアトリスを通じてスペイン王室ブルボン家にも血友病がもたらされた。
アリスの娘アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となったが、そのため皇太子アレクセイが血友病を持っていた。このことはニコライ2世とアレクサンドラがラスプーチンに入れ込む原因となり、ロシア宮廷を混乱させることになる。(つづく)
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