なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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エリザベス1世に続いて「女王陛下の下で栄える」を実現したのがヴィクトリア女王であった。
ヴィクトリア女王の63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の~」と形容をされることが多い。
ヴィクトリア女王の63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の~」と形容をされることが多い。
19世紀イギリスの高度成長期の開幕を告げたのが、1851年にロンドンのハイド=パークで開催された第1回ロンドン万国博覧会であった。
この万博は、その基金の全額が寄付によって賄われたとはいえ、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下を総裁とするまさに国家的な大イヴェントであった。万博の象徴は、全館が30万枚のガラスで覆われた大展示館で、造園士のジョーゼフ=パクストンによって温床のイメージをもとに設計され、水晶宮(クリスタル=パレス)と呼ばれた。
この巨大な建物は、横1,848フィート、奥行き408フィート、高さ66フィート、中央の身廊部分は高さが108フィートあり、自然保護の見地からハイド=パークにあったニレの巨木をそのままその中に収めていた。
博覧会には世界30カ国以上が参加、出品者・団体は1万5000、持ち込まれた展示品は10万点にのぼった。イギリスは機械類の展示などで他国を圧倒し、6割以上の賞牌を獲得した。
この万博は、その基金の全額が寄付によって賄われたとはいえ、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下を総裁とするまさに国家的な大イヴェントであった。万博の象徴は、全館が30万枚のガラスで覆われた大展示館で、造園士のジョーゼフ=パクストンによって温床のイメージをもとに設計され、水晶宮(クリスタル=パレス)と呼ばれた。
この巨大な建物は、横1,848フィート、奥行き408フィート、高さ66フィート、中央の身廊部分は高さが108フィートあり、自然保護の見地からハイド=パークにあったニレの巨木をそのままその中に収めていた。
博覧会には世界30カ国以上が参加、出品者・団体は1万5000、持ち込まれた展示品は10万点にのぼった。イギリスは機械類の展示などで他国を圧倒し、6割以上の賞牌を獲得した。
開会宣言はヴィクトリア女王が行った。女王暗殺を警戒して開会宣言を内輪で行うべきとの意見もあったが、最終的にはヴィクトリア自身が公開して行うと決めた。ヴィクトリアは万博開催中の数ヶ月間、気分が高揚してロンドン万博以外のことはほとんど頭になくなっていた。万博のすべてを見学しようと1週間に数回という頻度で水晶宮を訪れている。
開催機関は、5月1日から10月15日までの5カ月半、その間の観客数は延べ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。
その純益は17万ポンドに達した。この純益の一部はサウス・ケンジントンの土地86エーカーの購入にあてられ、やがてこの地に、今日もその威容を誇る大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館、アルバート・ホール、科学・技術教育のためのインペリアル・コレッジ(現ロンドン大学)などの科学・芸術・教育の諸施設が造られていった。
開催機関は、5月1日から10月15日までの5カ月半、その間の観客数は延べ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。
その純益は17万ポンドに達した。この純益の一部はサウス・ケンジントンの土地86エーカーの購入にあてられ、やがてこの地に、今日もその威容を誇る大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館、アルバート・ホール、科学・技術教育のためのインペリアル・コレッジ(現ロンドン大学)などの科学・芸術・教育の諸施設が造られていった。
また、トマス=クックが、折から確立された鉄道網を利用して全国各地から一般大衆の団体客を割引料金で万博見物に動員し、ロンドン万博の入場者の4%の人々はクックのツアーで見学したといわれる。
クックはその後、1855年のパリ万博、1869年の大陸横断鉄道やスエズ運河の開通を機に海外旅行も手がけ、庶民の娯楽としての旅行を定着させ、近代ツーリズムの祖とされている。
クックはその後、1855年のパリ万博、1869年の大陸横断鉄道やスエズ運河の開通を機に海外旅行も手がけ、庶民の娯楽としての旅行を定着させ、近代ツーリズムの祖とされている。
ヴィクトリア女王は在位初期の頃はホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛したが、1840年に母方の従弟にあたるアルバート公と結婚してからは、その忠告に従って王権の中立化に努めるようになった。その後もしばしば政治に影響力を行使しながらも、基本的に議会の状況に基づいて首相を選出するようになった。
国王の政治的影響力の面ではアルバート公がヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に満42歳で薨去した。これにより、イギリスに立憲君主政がさらに発展することになる。
国王の政治的影響力の面ではアルバート公がヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に満42歳で薨去した。これにより、イギリスに立憲君主政がさらに発展することになる。
一方、悲しみにくれるヴィクトリアはその後10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなったが、1870年代に保守党の首相ディズレーリに励まされて公務に復帰し、ディズレーリの帝国主義政策を全面的に支援し、大英帝国の最盛期を築き上げた。1876年には「インド女帝」に即位している。
ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のグラッドストンのことは一貫して嫌悪して、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。
ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のグラッドストンのことは一貫して嫌悪して、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。
ヴィクトリア滝
この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げた。その名残でヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)など、女王の名にちなんだ命名も少なくない。歴史上彼女ほど多く地図にその名を刻んだ者は存在していない。
ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。
ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。
晩年には老衰で政治的な活動は少なくなり、立憲君主化が一層進展した。
ヴィクトリアは1900年4月のアイルランド訪問でだいぶ疲労した様子を見せるようになった。同年晩夏頃からは不眠症に苦しむようになり、やがて食事もあまり取れなくなっていった。さらに失語症を患うようになった。そのような状態でもヴィクトリアは日々増える南ア戦争の戦死者の遺族に慰問状を書く激務に励んだ。だが日記の中では「私もそろそろ休息が許されてもいい頃です。81歳でしかも疲れ果てているのですからね」と弱音を吐くこともあった。
1901年1月22日、ワイト島のオズボーン・ハウスでヴィクトリア女王は81年の生涯を閉じた。偶然ロンドンに留学していた夏目漱石は、庶民たちが「イギリスの20世紀はちょっと不吉な始まり方をした」と話しているのを耳にしている。
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