なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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16世紀に北部アルスター地方に植民して以来、イギリスはアイルランドを植民地として支配し収奪した。アングロ=サクソン系でプロテスタントのイギリスと、ケルト系でカトリックのアイルランドという民族や宗教・文化の対立が、支配の強化と、それに対する自治や独立の要求運動にからんだ、アイルランド問題の解決は大英帝国にとって難問となり、「のどに刺さった小骨」と言われた。
ピューリタン革命時のクロムウェルによる征服と土地の没収以降、土地の80%以上がイギリス人不在地主に占有され、小作人となったアイルランド農民は、貧困と差別の中でジャガイモを常食とする苦しい生活にあえいだ。1801年にイギリスに併合されたのち、オコンネルらの運動によって宗教差別は緩和されたが、経済支配はさらに強化された。
ピューリタン革命時のクロムウェルによる征服と土地の没収以降、土地の80%以上がイギリス人不在地主に占有され、小作人となったアイルランド農民は、貧困と差別の中でジャガイモを常食とする苦しい生活にあえいだ。1801年にイギリスに併合されたのち、オコンネルらの運動によって宗教差別は緩和されたが、経済支配はさらに強化された。
アイルランドは、北緯50度を超える高緯度地方にあり、約1万年前まで全島を氷河が覆っていた。そのため土壌は薄く、しかも気温が低いために作物の生育に適した腐植土にも乏しい。そんな条件下でもジャガイモはよく育った。もともと大半のアイルランド人の主食はエンバクであり(これをオートミールにして食べていた)、バターなどの酪農品がそれを補っていたが、それでは冬に食べ物が乏しくなる。ジャガイモが注目されたのも当然だった。
しかし、アイルランドでジャガイモが受け入れられた背景はそれだけではない。支配者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ、自分たちが収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。小作人となったアイルランド農民は、農地の3分の2に小麦を植え、その収穫のほぼすべてをイングランドの地主に納めた。そして残り3分の1の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食として生き延びることができたのである。
小麦は粉にしてから、これを練って焼き、パンにしなければ食べられないが、ジャガイモは茹でただけで食べることが出来る。だから、ドイツではジャガイモのことを「貧者のパン」と言った。岩盤だらけのアイルランドの土地でも、ジャガイモはほとんど手入れなしで1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため「怠け者のベッド(苗床)」とさえ呼ばれた。
ジャガイモのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保障されたため、この国の人口は1754年の320万人から、1845年には約820万人にまで膨れ上がった。
ジャガイモのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保障されたため、この国の人口は1754年の320万人から、1845年には約820万人にまで膨れ上がった。
そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病(ペスト)以降でヨーロッパ最悪の惨事」と言われる「ジャガイモ飢饉」。原因は「ジャガイモ疫病」。アメリカ起源のこの病気は、1845年7月にはベルギーで報告され、8月にはパリやドイツ西部にも広がり、同月末にはアイルランドに上陸。そして1849年まで5年間もこの病気はアイルランドで猛威をふるい続けた。200年近くもの間、ジャガイモの収穫だけを頼りに生活していた貧しい農民たちは、生き延びることさえ難しい状況に追い込まれていく。
病気が収束して飢饉が終わるまでに、この「大飢饉」によってアイルランドでの餓死者は100万人を超えた。あまりにも死亡者が多かったため棺桶も墓も間に合わずそのままの状態で荷車によって運ばれ、遺体はまとめて埋葬された。
それにしても、なぜアイルランドだけで「ジャガイモ疫病」が「大飢饉」を引き起こしたのか?それは、アイルラン人があまりにもジャガイモに依存しすぎた(しかも「ランパー」という「ジャガイモ疫病」の影響を受けやすい品種のみ栽培)せいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからだ。
ダブリンの飢饉追悼碑
しかし、それだけではない。当時のアイルランドがおかれていた社会状況も考慮に入れなければならない。イギリス政府が十分な対応策を取らなかったのだ。食糧不足を解決するためには海外から安価な穀物を早急に輸入する必要があったが、「穀物法」(穀物の価格維持が目的)のために実行が困難だった。さらに、アイルランドから国外への輸出規制も行われなかった。驚くべきことに、飢饉が最も深刻な時でさえ、穀物を満載したアイルランドの船がイギリスに向かっていたのだ。
当時の民族主義活動家ジョン=ミッチェルは怒りもあらわにこう言った。
当時の民族主義活動家ジョン=ミッチェルは怒りもあらわにこう言った。
「神がジャガイモ疫病菌を遣わされたことはまちがいない。しかし飢饉を作り出したのはイングランド人だ。」
移民として旅立つ者を見送る人々
こうした状況にもと、疲弊したアイルランドに見切りをつけ、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として新天地を求めて去っていくものが相次ぐ。「大飢饉」のあいだにアイルランドから去っていった人たちは150万人に達するとされる。アイルランドの人口停滞は続き、2019年現在でアイルランドの人口は490万人にすぎず、一方、アメリカには4300万人、全世界では7000万人のアイルランド系の人が住んでいるといわれる。
しかし、貧しく、手に職もない移民(実態は今日の「難民」)たちを待ち受けていたのは苦難の道だった。とくに、プロテスタントが大多数を占めるアメリカでは、カトリック系のアイルランド移民は肩身が狭かった。アメリカ社会では、アイルランド人であり、カトリックであるということは汚名であり、職を得ようとすれば彼らに対する偏見が立ちはだかった。
しかし、貧しく、手に職もない移民(実態は今日の「難民」)たちを待ち受けていたのは苦難の道だった。とくに、プロテスタントが大多数を占めるアメリカでは、カトリック系のアイルランド移民は肩身が狭かった。アメリカ社会では、アイルランド人であり、カトリックであるということは汚名であり、職を得ようとすれば彼らに対する偏見が立ちはだかった。
それでも、そのような苦難に満ちた社会の中から、成功するものも生まれる。その一人が、アメリカの歴代大統領45人の中で唯一カトリック信者であったケネディ大統領である。彼の曽祖父パトリック=ケネディは大飢饉が起こった1848年にアイルランドからアメリカに移住した人物であった。
ひとつこんなエピソードを紹介しておこう。
1845年、オスマン帝国のスルタン、アブデュル=メジト1世はアイルランド支援のために1万ポンドを送ると宣言したが、ヴィクトリア女王は2,000ポンドしか送っていなかったため、イギリスはスルタンに1,000ポンドしか送らないよう要求した。
スルタンは1,000ポンドを送り、密かに3隻の船を満杯にして送った。イギリスは船を封鎖しようとしたが、食料はアイルランドのドロヘダ湾に到達し、オスマン帝国の船員たちによってそこに残された。
人命よりもメンツを優先させたイギリス政府であった。
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