なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ガリバルディは1807年にニース(当時第一帝政下のフランス領)で生まれた。彼の両親はそこで海上貿易に携わっており、彼も常に海の上で育ち、1832年には商船隊のキャプテンとなった。
マッツィーニと固い握手
ガリバルディは1831年に青年イタリアが結成されたことを知って感激し、1834年にマッツィーニに会って、二人は固い握手をした、とされている。この話はいくつかのガルバルディの伝記には取り上げられているが、本人の回想録には出てこない。どうやら1834年に二人が会ったというのは後日の創作らしく、二人が顔を合わせたのは1848年のミラノにおいてだった。
ガリバルディは運動の先駆者マッツィーニを常に高く評価していたが、どうやら人間的にはその禁欲的で理性的な感じは、思想よりは心情と行動の人であったガリバルディとは合わなかったらしい。
ガリバルディは運動の先駆者マッツィーニを常に高く評価していたが、どうやら人間的にはその禁欲的で理性的な感じは、思想よりは心情と行動の人であったガリバルディとは合わなかったらしい。
1834年、青年イタリアが崩壊してガリバルディもサルデーニャ海軍を脱走、イギリス人船員になりすまして1835年、マルセイユから乗船してブラジルのリオ=デ=ジャネイロに向かった。南米での亡命生活は28歳から40歳までの13年間に及んだ。
ブラジルに着いた頃、南部のリオ=グランデ=ド=スール地方で分離独立運動が起こっていた。ガルバルディはただちに運動に加わり、私掠船の船長となってブラジルと戦った。その大義名分は黒人奴隷制を続けているブラジルで、奴隷を解放することだった。
しかし、独立運動は内紛のために失敗に帰し、1841年、拠点をウルグアイに移し、首都モンテビデオでウルグアイ軍に投じてイタリア人移民を組織して「イタリア軍団」をつくり、アルゼンチンとの戦争を指揮した。ガリバルディのイタリア軍団は各地でアルゼンチン軍を破り、その報道はイタリアにももたらされ、知られるようになった。
ブラジルに着いた頃、南部のリオ=グランデ=ド=スール地方で分離独立運動が起こっていた。ガルバルディはただちに運動に加わり、私掠船の船長となってブラジルと戦った。その大義名分は黒人奴隷制を続けているブラジルで、奴隷を解放することだった。
しかし、独立運動は内紛のために失敗に帰し、1841年、拠点をウルグアイに移し、首都モンテビデオでウルグアイ軍に投じてイタリア人移民を組織して「イタリア軍団」をつくり、アルゼンチンとの戦争を指揮した。ガリバルディのイタリア軍団は各地でアルゼンチン軍を破り、その報道はイタリアにももたらされ、知られるようになった。
アニータ
この南米での亡命生活中、ガリバルディは三つの貴重なものを得た。一つはゲリラ戦の戦術であり、これは後のイタリアでの戦闘に大いに生かされた。後の南米の革命児チェ=ゲバラも彼の戦術を学んだといわれる。もう一つはブラジル人の妻アニータを得たことであった。アニータとの間には二人の男の子が生まれ、やがて母子を伴ってイタリアに帰り困難な闘いをともにすることとなる。最後の一つが「赤シャツの誕生」だった。
ガリバルディの代名詞でもある「赤シャツ隊」が、最初に現れたのは南米亡命中のウルグアイでのイタリア軍団だった。しかしその真相は次のようなことだった。
「イタリア軍団の制服は、後にガリバルディ伝説とも深くかかわる赤シャツであった。シャツといっても、ウールの長上着で、ベルトで締めるものである。赤は政治的な意味をもつものでも、革命をさすものでもない。いかにも派手で、人目につく、ガリバルディの義勇兵部隊の象徴となる赤シャツの誕生は、イタリア軍団の資金不足の結果であり、そこにはドラマもなにも存在しない。
血がついても汚れが目立たない、ブエノス・アイレスの食肉加工職人用の赤いシャツが戦争で出荷できずに、モンテビデオの倉庫に山積みになっていた。それを安く買いとって、イタリア軍団員の制服にしたというものである。」<藤澤房俊『ガリバルディ』中公新書 p.44>
「イタリア軍団の制服は、後にガリバルディ伝説とも深くかかわる赤シャツであった。シャツといっても、ウールの長上着で、ベルトで締めるものである。赤は政治的な意味をもつものでも、革命をさすものでもない。いかにも派手で、人目につく、ガリバルディの義勇兵部隊の象徴となる赤シャツの誕生は、イタリア軍団の資金不足の結果であり、そこにはドラマもなにも存在しない。
血がついても汚れが目立たない、ブエノス・アイレスの食肉加工職人用の赤いシャツが戦争で出荷できずに、モンテビデオの倉庫に山積みになっていた。それを安く買いとって、イタリア軍団員の制服にしたというものである。」<藤澤房俊『ガリバルディ』中公新書 p.44>
1848年革命の嵐がヨーロッパに巻き起こると、ガリバルディは直ちに帰国、6月23日にニースに着いた。奴隷から解放された黒人アギャールが副官として付き添っていた。彼は生涯をガリバルディの側で活動している。他に200人足らずの義勇兵が従った。ただちに激しい「ミラノの五日間」を戦ってオーストリア軍を撃退していたミラノ蜂起に加わり、マッツィーニと面会、サルデーニャ軍とともにその戦いに加わり1500名を率いて戦った。
この第1次イタリア独立戦争とも言われる戦いでは、サルデーニャ軍が敗れたため、ミラノが孤立し、間もなく臨時政府も崩壊した。しかし、ガリバルディは戦いを止めず、孤独な戦いを続け、各地を転戦した。
この第1次イタリア独立戦争とも言われる戦いでは、サルデーニャ軍が敗れたため、ミラノが孤立し、間もなく臨時政府も崩壊した。しかし、ガリバルディは戦いを止めず、孤独な戦いを続け、各地を転戦した。
翌1849年1月、ローマでも革命の動きが高まり、教皇ピウス9世が逃亡したとの知らせを受け、ガリバルディの赤シャツ隊は厳冬のアペニン山脈を越えてローマに向かった。2月9日にローマ共和国が成立、ガリバルディも議員として共和政議会に参加した。
カルロ=アルベルト
しかし、サルデーニャ王国軍は3月のノヴァーラの戦いでオーストリアに敗れ、国王カルロ=アルベルトは退位したため、ローマ共和国は危機に陥った。マッツィーニがローマに迎えられ、三頭政治を開始したが、今度はフランスで大統領となったルイ=ナポレオンが国内のカトリック勢力の支持を得ようとしてローマ教皇救済に乗り出し、4月にフランス軍がローマ共和国攻撃を開始した。
ガリバルディはローマ共和国防衛の戦いでも奮闘し、一時はフランス軍を撃退したが、追撃を主張するガリバルディに対し、マッツィーニはフランスとの妥協を図るなど対応が分裂し、ついにフランス軍の総攻撃によって陥落し、ガリバルディはヴェネツィアを目指して逃避行に入った。
ガリバルディはローマ共和国防衛の戦いでも奮闘し、一時はフランス軍を撃退したが、追撃を主張するガリバルディに対し、マッツィーニはフランスとの妥協を図るなど対応が分裂し、ついにフランス軍の総攻撃によって陥落し、ガリバルディはヴェネツィアを目指して逃避行に入った。
アニータの死
身重の妻アニータが一緒に行動したが、過労のため、途中のラヴェンナで力尽きて息絶えた。墓穴を掘る間もなくいたいに土をかけただけで急いで立ち去らなければならなかった。オーストリア軍とフランス軍の追跡は厳しく、ヴェネツィアに入ることはできず、荷馬車に隠れてトスカーナに逃れた。この悲劇的な逃避行も、後にガリバルディ神話の一つになる。
アニータは常に夫とともに前線で戦い、「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑であった。
アニータは常に夫とともに前線で戦い、「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑であった。
ジェノヴァに逃れたガリバルディは、1850年にはニューヨークに亡命、51年にかけて船乗りとして中国の広東やオーストラリアなどに出かけている。54年にジェノヴァに戻り、サルデーニャ島近くの小島カプレラ島を購入して隠棲生活に入った。(つづく)
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