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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー熱血の志士・ガリバルディ②

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ガリバルディ

 ガリバルディがカプレラ島で隠遁生活に入った頃から、情勢は大きく転換する。1852年にサルデーニャ王国の首相となったカヴールがクリミア戦争に参戦し、巧みな外交でフランスのナポレオン3世の信頼を得てプロンビエールの密約を結んだ上で、1859年4月、オーストリアに宣戦、イタリア統一戦争が始まった。

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ソルフェリーノの戦い

 サルデーニャ・フランス同盟軍はミラノを解放し、ソルフェリーノの戦いでは大規模な戦闘となり大きな犠牲を出したが辛勝した。ガリバルディは熱烈な共和主義者であったので、カヴールの進めるイタリア統一には初め反対であったが、オーストリアからの解放の戦いが始まると積極的に参加、「アルプス猟兵隊」という義勇師団を率いてオーストリア国境でゲリラ戦を展開した。

 しかし、突如ナポレオン3世がヴィラフランカの和約でオーストリアと単独講和したため、戦争は中断されることになった。ガリバルディもやむなく戦闘を中止した。その結果、ロンバルディアはサルデーニャに併合されたが、ヴェネツィアはオーストリア支配下にとどまることとなった。

 1860年3月にはカヴールがトスカーナなど中部イタリアを併合を認めさせるため、フランスにサヴォイアとニースを割譲したことにガリバルディは激怒し、関係は悪化した。

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「千人隊」の出発

 ガリバルディは独自に事態打開のため行動を開始、1860年5月、「千人隊」を率いて、海路シチリア島に向かった。シチリア遠征は急に決まったため、ジェノヴァの近くの港を出たときの人数は1089名にすぎなかった。そこから「千人隊」の名称が付けられた。

 またガリバルディの赤シャツ姿はすでに有名だったので「赤シャツ隊」とも言われたが、全員のユニフォームだったわけではなく、実際に赤シャツは50着しか用意されず隊員は普段着のまま参加した。ガリバルディの赤シャツは目立ちすぎて標的になたため、隊員はできるだけ彼の前に立ちはだかるようにした。

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シチリア軍を破る千人隊

 ガリバルディはシチリア島西岸に上陸して両シチリア王国のブルボン朝軍と戦い、パレルモに入城、シチリア島を占領した。

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ナポリに入城するガリバルディ

 さらにガリバルディと千人隊はメッシーナ海峡を渡りイタリア本土に侵攻、9月7日にナポリに入城した。ガリバルディは市民から大歓迎を受け、国王フランチェスコ2世は退去した。こうしてブルボン家の支配する両シチリア王国は消滅、ガリバルディによって征服された。

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 ガリバルディの優れた軍事的指導力に驚愕したカヴールは、急遽シチリアと南イタリアで住民投票を実施、サルデーニャへの併合を可決させた。

 
ガリバルディは更にローマの教皇国家を解放することをめざし北上しようとしたが、それは教皇を護衛しているフランスとの決定的な対立となるので、カヴールはそれを阻止しようとし、またマッツィーニなども段階的な統一が現実的と考え、ガリバルディの北上に反対した。ガリバルディは軍事的には成功したが政治的には主導権を握ることはできなかった。

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テアーノの会見

 ヴィットリオ=エマヌエーレ2世も急遽半島を南下し、1860年10月25日、ナポリ北方のテアーノで両者は会見し、ガリバルディはシチリアとナポリの統治権を無条件で国王に献上した。これによってサルデーニャ王国主体のイタリアの統一が大きく進んだ。

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ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

 ガリバルディは、熱心な共和主義者であったが、マッツィーニのような原理的なものではなく、政治的見識よりも「イタリアの統一」という民族意識を優先した。シチリア遠征を開始するにあたっての千人隊への演説でもこの戦いは「ヴィットーリオ=エマヌエーレとイタリア」のためだとしてそれを標語にした。イタリア統一のためには共和政の理念よりも国王の権威が必要と考えたものと思われる。

 ガリバルディはさらに1年間の南部イタリアの支配、千人隊の正規軍への編入などを求めたがカヴールの反対で却下された。かわりに正規軍の将軍の地位や大勲章の授与、貴族の称号、城や船の供与などが国王から提案されたが、ガリバルディはそのすべてを拒否、11月にナポリを離れカプレラ島に帰った。これが事実上のガリバルディによるイタリア統一運動の終焉であった。

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ガリバルディの一族

 1861年3月、サルデーニャ王国は新たにイタリア王国として正式に発足した。ガリバルディの名声は衰えることなく、一時はイタリア王国の議会に議員として迎えられたが、激しくカヴールを批判して孤立し、国内では厄介者扱いされる状態となった。その後も残されたローマ併合と共和政に意欲を燃やしたが、共和政は実現することなく、1882年6月2日、ガリバルディは一族に見守られながらに75年の生涯を閉じた。

リンカン 
リンカン

 イタリア王国が正式に成立した1861年、アメリカ合衆国で南北戦争が始まった。大統領リンカンは、ガリバルディの軍人としての能力を高く評価していたので、北軍の司令官就任を要請した。しかし、ガリバルディは北軍の最高司令官に就任することと奴隷制の廃止という二つの条件を出した。リンカンは、軍隊の最高地位を外国人に与えることは不可能であり、奴隷制廃止には時間がかかるとして返答した。

 南米では自ら奴隷制廃止のために戦い、1861年にはロシアで農奴解放令が出されたことを知っていたであろうガリバルディは、結局リンカンの要請を断った。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/12/18 05:14 】

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