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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー鉄血宰相・ビスマルク①

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ビスマルク

 ビスマルクは1815年にシェーンハウゼンでユンカー(領主貴族)の家に生まれ、ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだ。卒業後、一時軍務などについたが、父の死後は領地の経営にあたった。プロイセン連合州議会議員となって政界に入り、1848年の三月革命では反革命派として王政擁護に活躍。

1世 
ヴィルヘルム1世

 1851年、フランクフルト連邦議会にプロイセン代表として参加し、小ドイツ主義の立場に立ち、オーストリアと対立した。その後はプロイセン大使としてロシア、ついでフランスに赴任し、外交経験を積んだ。

 1862年9月、プロイセン議会は政府提出の軍備拡張を進める予算案を否決した。この窮状を打開するため、
国王ヴィルヘルム1世はビスマルクを首相兼外相に任命した。時にビスマルク47歳。

 就任1週間目の9月20日、ビスマルクは下院予算委員会で議員を前にして軍備の必要性を訴える演説を行った。

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 「ドイツの着眼すべき点は、プロイセンの自由主義ではなくその軍備であります。……プロイセンは今まで何回かの好機を失って来ましたが、これにかんがみてプロイセンは今後の好機に備えて力を結集しておかねばならないのであります。プロイセンの国境は健全な国家のそれにふさわしいものではありません。言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は1848年および1849年の欠陥でありました。鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。」

 この演説によりビスマルクは鉄血宰相と呼ばれるようになる。言うまでもなく鉄とは大砲や銃・銃弾、軍艦などの武器を意味し、血とは兵士の流す血を意味している。つまり、ドイツの統一のためにはオーストリアとの戦いは避けられず、プロイセンの軍事大国化のためには議会や言論は無視することを宣言したのだった。

 軍制改革・軍備拡張案が議会で否決されると、憲法には政府と議会の意見一致が見られななかった時の規定がないことを理由に、政府責任で強行し、議会が違憲を唱えると停会につぐ停会で答えた。


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アルスを襲撃するプロイセン兵(デンマーク戦争)

 まず、1864年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題で、オーストリアと共同してデンマーク戦争を起こし、デンマークを破った。ビスマルクの当面の叩くべき相手は、ドイツ連邦の主導権を巡って対立が続くオーストリアである。実はデンマーク戦争を起こしたビスマルクの真の目的は二つあった。

 一つはオーストリアと共同作戦をとることで、オーストリアの装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気など、オーストリア軍の内部事情を探ることにあった。そして、ビスマルクはオーストリア軍の装備から用兵までもがナポレオン時代から進歩していないことを知った。

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フランツ=ヨーゼフ1世

 戦後、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ統治することになった。しかし、ビスマルクは巧みにオーストリアを戦争に追いこんでいく。ホルシュタインの統治をめぐってオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世を挑発し、戦争に持ち込んだ。これがビスマルクのもう一つの目的であった。

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ナポレオン3世

 フランスのナポレオン3世は少年時代をバイエルンで過ごしたためか、親ドイツ的なところがあった。風貌もラテン的というより、どことなくゲルマン風である。生粋のプロイセン・ユンカー出身のビスマルクとは、彼が駐フランス大使であったころ顔見知りとなっている。この時すでに、ナポレオン3世はその「ひとの良さ」あるいは「性格の弱さ」をビスマルクに見抜かれていた。

 ドイツ統一の主導権争いに決着をつけたプロイセン=オーストリア戦争では、ビスマルクの外交手腕が冴えわたった。ビスマルクは、1865年10月スペイン国境近くの保養地ビアリッツにナポレオン3世を訪ね、オーストリアとの開戦に際してフランスが中立を保つなら、ライン左岸のどこかを割譲してもよいとの意向をほのめかした。この口約束で好意的中立をとりつけたビスマルクは、さらにイタリアとも密約を結び、南からオーストリアの背後を牽制させた。


モルトケ 
モルトケ

 こうした布石の一方で、参謀総長モルトケが着々と戦争準備を整えていた。兵員量、実戦経験などで優っていたオーストリアを下したのは、産業革命の賜である鉄道と電信をルフに活かした、迅速な兵力移送と作戦・指揮系統の効率化がものを言った。これに最新式の火器など、装備の近代化においてもオーストリアを上回っていた。

戦い 
サドワ・ケーニッヒグレーツの戦い

 こうしてプロイセンは、南北二正面作戦を強いられたオーストリアを1866年7月サドワ・ケーニッヒグレーツに破り、積年の雄邦対立に決着をつけた。開戦からわずか7週間であった。

 翌1867年のプラハ講和条約では、オーストリア主導のドイツ連邦が解体され、マイン河以北にプロイセンが22の邦国を統括する来たドイツ連邦が誕生した。さらに、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ハノーファー・ナッサウなどもプロイセンに併合された。以後、「ドイツ」の圏外に去ったオーストリアは国制を改革し、マジャール人の自立を認めてオーストリア=ハンガリー帝国として再出発することを余儀なくされる。

 続いてビスマルクはナポレオン3世を翻弄し、フランスを戦争へと追い込んでいくことになる。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/12/22 05:16 】

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