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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー鉄血宰相・ビスマルク②

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ナポレオン3世

 ナポレオン3世は、プロイセン=オーストリア戦争に中立という「サーヴィス」を提供した対価として、プロイセンにライン左岸の割譲を求めたが、ビスマルクはビアリッツでの口約束を反古にし、皇帝の「チップ外交」を冷笑するのみだった。

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ビスマルク

 ビスマルクは、プロイセンがドイツ統一を果たし中欧に覇権を確立する上で、最大の障害はフランスという認識を早くから持っていた。彼にとっては、プロイセン=オーストリア戦争もフランスを叩く上での布石であり、以後もナポレオン3世の「勇み足」をひきだすための仕掛けを練っていた。ルクセンブルクをオランダから買収しようとしたフランスに激しく抗議し、ロンドン列国会議で永世中立国とさせたのも皇帝のプライドをいたく傷つけた。

レオポルド 
レオポルド

 そこにスペイン王位継承問題がもちあがる。スペインでは1868年の革命でブルボン復古王政が倒れ、新たな立憲君主政の国王として、プロイセン王家であるホーエンツォレルン家の系統をひくレオポルドを推戴しようとした。フランスにとって、このことはプロイセン王家に挟み撃ちされることを意味し、ハプスブルクのカール5世がスペイン王カルロス1世を兼ねてフランスを挟撃した16世紀の悪夢を思い出させるものであった。

 フランスの世論をあげての激しい攻撃に、一時は受諾
に傾きかけていたホーエンツォレルン家も辞退を表明する。フランスとの開戦を望んで、王位受諾を働きかけていたビスマルクの野望はこれでついえたかに思われた。

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ヴィルヘルム1世(左)とベネデッティ

 ここでナポレオン3世は勇み足をおかす。1870年7月13日、ナポレオン3世がプロイセン国王からスペイン王位問題を蒸し返さない確約をとるべく、温泉地エムスに滞在中のプロイセン国王ヴィルヘルム1世のもとに駐プロイセン大使ベネデッティを派遣した。

 だが国王は、さすがにこの非礼に腹をたて、申し入れを拒否しただけでなく午後の引見予定をも取り消した。この経過は電報でベルリンのビスマルクに伝えられた。

電報 

 開戦準備怠りないビスマルクは、すでにバイエルンをはじめとする南ドイツ4邦国の支持をとりつけ、イギリス、ロシアからも好意的中立の感触を得ていた。モルトケ、ローンとの食事の席で、国王からの電文を受け取ったビスマルクは鉛筆を片手に電文を改竄し、ただちに新聞に発表させた。フランス大使の非礼に怒ったプロイセン国王は今後いっさいフランスとは交渉しない、という内容であった。有名なエムス電報事件である。

 これを見たドイツの世論は沸き立ち、反フランスをバネとした国民意識がいっきに盛り上がった。他方、大使が侮辱されたとみたフランスの世論も猛反発し、「ベルリンへ!」「プロイセンを倒せ!」という声がパリ民衆の間で飛び交う。早くも7月14日開戦が閣議決定され、7月19日にはプロイセンに宣戦布告がなされた。ビスマルクの仕掛けた罠に、ナポレオン3世がまんまと引っ掛かったのである。

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プロイセン=フランス戦争

 ビスマルクは王位継承といういかにも前近代的な王朝外交をテコにして、ドイツ統一、国民国家形成という19世紀ナショナリズム的課題の仕上げにとりかかった。かつてオーストリア側につき、反プロイセン分邦主義に立っていたバイエルン、バーデン、ヴュルテンベルク、ヘッセンの南ドイツ4邦国も、反仏ナショナリズムの波に乗せられてプロイセン軍と合流した。マイン河の南北で波風が立つことを期待したフランスにとって、これは大きな計算違いであった。

 このいくさは普仏戦争と言われているが、実態は全ドイツとフランスとの戦い、まりつ独仏戦争であった。

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普仏戦争のフランス兵

 52万の兵力、質量とも優勢な火器、円滑な輸送・兵站など準備万端整えられていたドイツ軍に対して、大砲を半分以下しかもたぬ30万のフランス軍は、兵站部の準備が遅れたまま実戦に突入したが、ヨーロッパ最強という彼らの自負が虚構であったことを露呈するのに幾らもかからなかった。

スダン 
降伏したナポレオン3世とビスマルク

 8月、アルザス・ロレーヌに侵攻したドイツ軍は連戦連勝、月末にはフランスの主力軍をメッツとスダンに分断して追い詰め、包囲の態勢を整えた。9月1日スダンで総攻撃を受けたフランス軍は1万7000人の死傷者を出し、翌2日にはナポレオン3世は8万3000の将兵とともに降伏した。9月4日、この報を受けたパリでは蜂起が起こり、第二帝政はあえなく瓦解、穏健共和派を中心とした臨時国防政府が成立した。

パリ 
パリ包囲戦

 ドイツ軍は侵入を続けてパリを包囲し、4カ月におよんだ。この間、国防政府のガンベッタは10月初め、熱気球でパリを脱出、義勇軍を編成してパリを救援しようとしたが敗れた。こうしてパリ市民の果敢な抵抗も寒気と飢餓のため潰えて、ついに1871年1月26日降伏。正規軍は全員捕虜となり、28日パリは開城された。

 新たに行政長官に就いたティエールが交渉にあたり、2月26日仮講和条約が締結された。フランスは50億フランの賠償金を向こう3年間で支払い、アルザスの大半とロレーヌの3分の1をプロイセンに割譲するという条件を呑まざるをえなかった。

 3月1日、勝ち誇ったプロイセン軍がパリに入城し、抗議の黒旗がたれ下がるシャンゼリゼを行進した。プロイセンは、ナポレオン1世の軍隊にベルリンを制圧された屈辱と怨念を、60数年かかってここに晴らしたわけである。

即位 
皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式

 だが、過剰な報復はあらたな怨念を増幅させるだけである。実は、プロイセンはパリ入城より1カ月以上も前に、これ以上ない屈辱感をフランス人に味わわせていた。1871年1月18日、まだパリ市民が砲撃を浴び続けているさなかに、占領されたヴェルサイユ宮殿「鏡の間」では、なんとプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が執り行われたのである。

 フランスに対する怨念によって育まれたドイツ国民主義が本懐をとげるのに、これ以上相応しい場所はない。とはいえ、いささか悪趣味の謗りは免れまい。この屈辱によって屈折し、増幅されたフランスのナショナリズムは、1914年に爆発し、大戦後の過酷なヴェルサイユ講和条約をなって今度はドイツに跳ね返って来るのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/12/25 05:13 】

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