なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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アレクサンドル2世は1818年4月29日(ユリウス暦4月17日)、ニコライ1世の第一皇子として生まれた。幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な為政者になるべく帝王教育を受けた。帝国を統べるために必要なドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・財政などの政治的教養を身に付けていった。
1855年3月2日、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、アレクサンドルが皇帝の座についた。戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認め、パリ条約を結んだ。
ロシアが、クリミア戦争で敗北したことは、ロシア陸軍の不敗―あのナポレオン戦争に勝利した―の神話をうち砕き、帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗、ロシアの後進性が明らかとなった。
ロシアが、クリミア戦争で敗北したことは、ロシア陸軍の不敗―あのナポレオン戦争に勝利した―の神話をうち砕き、帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗、ロシアの後進性が明らかとなった。
アレクサンドル2世が取り組まなければならない課題は、まず遅れたロシアの社会の近代化であった。アレクサンドル2世は一連の「大改革」といわれる改革に取り組むこととなった。
1861年2月19日、アレクサンドル2世は農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
1861年2月19日、アレクサンドル2世は農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
1864年には地方自治機関であるゼムストヴォを設置した。これは県と郡ごとに設けられた地方議会を兼ねる機関であり、財産資格による選挙によって参事会が選出され、地域の道路整備、医療、教育などに当たった。その基礎は伝統的な農村共同体である村と郷であった。このようにまず地方自治には一定の前進を見たが、中央での議会開設には至らなかった。
その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。
その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。
ナロードニキの逮捕
しかしその上からの改革は、ツァーリズムの圧政に対する反発を呼び覚まし、1860~70年代にはナロードニキ運動が盛んになった。当時、バクーニンのアナーキズムの思想の影響を受けた青年、学生などのインテリゲンツィアが、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)を合い言葉に、農村の中に入り革命思想の宣伝に努めた。このスローガンから彼らはナロードニキと呼ばれた。
しかし、保守的な農民を動かすことが出来ず、次第に絶望して、一部はテロリズムに走り、一方ではニヒリズムに陥っていった。
しかし、保守的な農民を動かすことが出来ず、次第に絶望して、一部はテロリズムに走り、一方ではニヒリズムに陥っていった。
1863年1月にロシア支配下のポーランドで反乱が起こると、その自治を奪い、自国語の使用を禁止して弾圧を加えたので、かえって国内の地下革命組織を刺激し、アレクサンドル2世が暗殺されることになる。暗殺したのは、ナロードニキの流れをくむ「人民の意志」を名乗るテロリストたちであった。
テロリストの中心となったのはソフィア=ペロフスカヤという看護婦で、27歳という若さだった。彼女は貴族の出だったが、ナロードニキの運動に共鳴して家を出、農民を助けるために薬学を学び看護婦となった。労働者に対する政府の激しい迫害を体験し、社会変革のためには専制君主を暴力で倒すしかないと決意し、テロを実行することを決意したのだった。
1881年3月11日(ロシア暦3月3日)、ソフィアたちはかねて準備したアジトで宮殿に帰る途中のアレクサンドル2世を爆弾で襲撃。没落したシュラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグナツィ=フリニェヴィエツキの投じた爆弾により、アレクサンドル2世はその命を奪われた。ツァーリ殺害は世界中を驚かせ、政府は犯人逮捕に狂奔し、10日にソフィアも逮捕され、4月15日に仲間とともに処刑された。
アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世は、ツァーリズム強化をめざし、反体制派の徹底した弾圧に乗り出した。また、暗殺をユダヤ人の犯行であると決めつけ、反ユダヤ主義の感情からユダヤ人に対する激しい迫害(ポグロム)を始めた。このころからロシアを逃れてアメリカなどに移住するユダヤ人が急増することになる。
マリア=アレクサンドロヴナ
ここで、アレクサンドル2世の女性遍歴について話をしよう。1841年、アレクサンドル2世はヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったが、アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎え、マリーは改宗してマリア=アレクサンドロヴナと名乗った。
しかし結婚後、アレクサンドルの妻への愛情は急速に冷め、間に8人の子供をもうけつつ、他の貴族女性との性的関係を繰り返し、3人の私生児をつくった。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝をひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。
しかし結婚後、アレクサンドルの妻への愛情は急速に冷め、間に8人の子供をもうけつつ、他の貴族女性との性的関係を繰り返し、3人の私生児をつくった。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝をひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。
1866年、48歳のアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学院の女学生だったエカチェリーナ=ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会った。二人はカーチャがスモーリヌイ女学院を卒業するのを待って恋愛関係になり、4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いた。当然ながらこの関係は明るみに出て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。
1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。
1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。
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