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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーインディアンを憎んだ男・ジャクソン②

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ジャクソン

 ジャクソン大統領の時期に民主主義が進展したと言われている。それはアメリカでの白人男性普通選挙が各州で採用されるようになったことなどに現れており、ジャクソニアン=デモクラシー(ジャクソン民主主義)といっている。

 ジャクソンの推進した民主主義を支えたのは西部の独立した自営農民と東部の労働者層であり、自立を尊ぶ開拓者精神と権威(エスタブリッシュメント)を嫌う平等主義を共通の心情とするアメリカの「草の根民主主義」の源流であった。

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居留地に向かうインディアン

 しかしその一方で、ジャクソンは「彼らを絶滅から救うために、連邦政府は親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払う」と、人道的立場からの提案としてインディアン強制移住法を制定し、インディアンに対する苛酷な処置をとった。

 インディアン強制移住法は1830年6月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。

 ジャクソンは国防長官らを派遣して、部族ごとに交渉を開始、移住を強制した。まずチョクトウが同意し、続いてクリーク、セミノール、チカソーの各インディアンが相次いで屈服し、1831年暮れから移住が始まった。厳しい冬の集団移住は悲惨の一語につき、食糧も不足する中、氷の上を素足をひきずって幽鬼のような長い列が続いた。

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チェロキー族

 チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗するようになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。

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ジョン=ロス

 ジャクソンの姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。

 条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第1陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかった。

 1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。

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オクラホマ

 チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から1839年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3000人を1000人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、1人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に1人あたり66ドルが当てられた。

 しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。

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「涙の旅路」

 チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。

 1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。

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 亡くなったジョージ=フロイドさん

 2020年5月のミネアポリスでの黒人ジョージ=フロイドさんが白人警官に殺害された事件に対する抗議行動は、暴動を各地で誘発しただけでなく、歴史的な人種差別主義への告発として広がっており、各地で歴史上の人物が差別主義者と糾弾され、引き倒されるなどの動きとなって続いた。

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ジャクソンの騎馬像を引き倒そうとするデモ隊
 
 それに対してアメリカのトランプ政権は神経を尖らせ、そのような破壊行動に対しては首謀者を割り出し、逮捕するという大統領令を出した。その一発目で、6月28日、アメリカ司法省はワシントンのホワイトハウス近くにある第7代ジャクソン大統領の騎馬像を引き倒そうとしたデモ隊のリーダー格4人を訴追した、と発表した。

 ジャクソンのインディアン強制移住法は最悪の人種差別政策として糾弾されるべきであろう。当時の事情から言って彼に人種差別の意図はなかった、という弁解論が当然あろうが、大統領という職務は歴史的審判を受けなければならないものだとすれば、現代の価値基準で彼を差別主義と糾弾するのもいたしかたないだろう。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/05 05:19 】

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