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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー奴隷解放の父・リンカン①

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リンカン

 エイブラハム=リンカンは1809年2月12日、ケンタッキーの田舎の丸太小屋で生まれ、川船乗り、製粉業、郵便局長などをしながら1834年ホイッグ党員としてイリノイ州議会の議員に当選、この間独学で法律を学び1836年に弁護士資格も取得した。1846年には連邦下院議員に当選、アメリカ=メキシコ戦争では戦争反対の演説をしたが、戦勝に沸く世論から非愛国者とみなされ、一時中央政界を退いた。

 その後の10年はイリノイ州のスプリングフィールドで弁護士を開業し、企業弁護士として活躍しながら正義感から貧者に対しても真剣な弁護に取り組み「正直者のエイブ」と言われた。

 1850年代に入ると、アメリカ合衆国の北部と南部で、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかで激しい対立が生じた。リンカンは黒人奴隷制については奴隷制即時廃止論(アボリショニスト)には混乱を招くとして反対し、南部諸州の奴隷制維持は認めるがその北部への拡大には反対して漸進的に廃止に持っていくのがよいと考えていた。

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ストゥ

 そうした中で、1851年にストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、1852年5月に単行本として出版されると、たちまちベストセラーとなって最初の10年で30万部を売り尽くした。黒人奴隷のおかれた状況を愛情を持って描いたこの作品は奴隷制反対運動の高揚をもたらし、政界から離れていたリンカンにも刺激を与えた。

 1854年、民主党の奴隷制拡大論者が提案したカンザス・ネブラスカ法が成立し、北部の新しい州に奴隷州を造ることはできないと定めたミズーリ協定が破棄されてしまう。こうして奴隷制拡大派が優勢になると、危機感を強めたリンカンは政界に復帰.。1854年、上院議員選挙にイリノイ州から立候補したが敗れてしまう。

 後日談になるが、リンカンが大統領になってから、ホワイトハウスに招かれたストゥは大統領から、次のような言葉で迎えられている。

 「あなたが、この大きな戦争をひき起こした本をお書きになった小さなご婦人なんですね――」と。

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綿花プランテーションの黒人奴隷

 リンカンは地方議会議員であったときからホイッグ党の党員であったが、ホイッグ党は黒人奴隷制問題が深刻となると、奴隷制度拡大反対か、即時廃止か、維持拡大容認か、などで党員の意見が割れ、内部が混乱して弱体化した。

 リンカンは、黒人奴隷制度の拡大を認めることは、アメリカ合衆国という国家の中に、相容れない社会が二つ固定されることになるとして否定し、「すべての人は平等に造られている」という独立宣言の原則で成り立っているアメリカ合衆国の統一を維持するために1856年、共和党の結成に加わった。

 このリンカンの理念をよく示しているのが、1858年6月のスプリングフィールドにおける共和党州大会での演説「分かれたる家は立つこと能わず」である。

 「この(奴隷制度)拡大運動はやむどころか、ますます昂じてきました。思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3の25)、半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」

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大統領就任式

 1860年11月の大統領選挙で共和党候補として当選、翌年3月、第16代アメリカ大統領に就任した。共和党としては最初の大統領であった。

 当時、アメリカ合衆国はアメリカ独立革命ともいわれる建国以来80年に近づこうとしていたが、1840年代以来の急速な西部開拓によって国土が膨張した一方、工業化が進んだ北部と、黒人奴隷労働に依存する大農園を基盤とした南部との違いが明確となり、それに建国以来の連邦主義と反連邦主義(州権主義)の対立、保護貿易か自由貿易かという経済政策上の対立などが加わって南北の対立が鮮明となっていた。

 リンカンは北部を基盤とした共和党に属し、連邦主義、奴隷制度拡大に反対という政治的立場にたち、南部を基盤とし州権主義、奴隷制度維持を主張する民主党と対立したが、彼自身は南部の出身で中西部で育ち、極端な奴隷解放論者でもなく、分離主義者でもない中間的立場であったこと、民主党が奴隷制拡大を強硬に主張する南部民主党と奴隷制が維持できれば共和党と妥協してもよいと考える北部民主党に内部分裂していたことが大統領に当選できた理由であった。

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ジェファソン=デヴィス

 1861年3月4日、リンカンは大統領就任演説をおこない、そこで南部に対し黒人奴隷制廃止を迫る干渉はしないこと、自分の使命は合衆国を分裂の危機から守ることであることを訴え、最後に次のような言葉で結んだ。

 
「不満を抱く同胞諸君よ、内乱の重大危局(を避ける鍵)は、私の手にではなく、諸君の掌中に握られております。政府は諸君を攻撃しないでしょう。諸君自らが攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ないでしょう。諸君は、わが国の憲政(ガヴァメント)を破壊しようということを天に誓ったはずもなく、私は「憲法を維持し保護し擁護すべきこと」(憲法第2条1節8項)をきわめて厳重に、宣誓しようとするものであります。(中略)

 われわれは敵同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。たとい感情の緊迫はあったとしても、それでもわれわれの愛の絆を断絶させてはなりません。神秘なる思い出の絃【いと】が、わが国のあらゆる戦場と愛国者の墓とを、この広大な国土に住むすべての人の心と家庭とに結びつけているのでありまして、(この絃が)必ずや時いたって、われわれの本性に潜む、よりよい天使の手により、ふたたび触れ(奏で)られる時、その時には連邦(ユニオン)の合唱(コーラス)が重ねて今後においても高鳴ることでありましょう。」

 
しかし、リンカンの大統領当選で危機感を強めた南部のプランター(農園主)に押された南部諸州が合衆国から離脱。1861年2月に、ジェファソン=デヴィスを大統領としてアメリカ連合国を結成、7月に南北戦争に突入することになる。

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大統領候補のリンカンの肖像

 ところで、リンカンについて我々の多くは顎髭を生やした肖像を思い浮かべる。だが、1860年の選挙戦の時までの彼は髭を生やしていない。

 ニューヨーク州ウェストフィールドでの選挙演説を観た11歳の少女グレース=ベデルの手紙に「貴方はとても痩せているので、顎髭があればもっと立派に見えるでしょ。そうすれば、女性達は夫に貴方に投票するよう勧めるでしょう」とあったため、大統領に当選した後に顎髭を生やし始めた。

 就任式のためにワシントンに向かう彼の列車がウェストフィールドに停車すると、リンカンはグレース嬢と会って、その頬にキスをしたという。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/08 05:12 】

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