なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ムハンマド=アリー
ムハンマド=アリーは1769年に当時オスマン帝国領だったマケドニアのカヴァラという港町に生まれた。奇しくもこの年はナポレオンが生まれた年でもあり「私はアレクサンドロスの国にナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。
ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。
ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。
ムハンマド=アリーが頭角を現すのは、エジプトを占領したナポレオンの支配を終わらせるために、オスマン帝国が派遣したアルバニア人不正規部隊の副指揮官に任ぜられた時だった。ムハンマド=アリーは、1798年8月にナイル河口のアブキール湾停泊中のフランス艦隊をイギリスのネルソン提督が撃沈している最中に、アルバニア人部隊の一部を指揮していた。その数ヶ月後、ナポレオンはエジプトを去ることになる。
この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。
この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。
セリム3世
これは正式なものではなかったが、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を追認された。総督(太守とも訳す)は単なる地方官ではなく、大幅な権限が認められていたので、ムハンマド=アリーは実質的独立を勝ち取ったと言うことができる。
その地位の世襲が認められるのは1841年であるが、実質的にはエジプトのムハンマド=アリー朝は1805年に成立したといえる。
ムハンマド=アリーは、エジプトの実権を握ると、軍隊や国家の機構、経済などで近代化をはかる必要を感じたが、その際に障害となるのが、マムルークの勢力であった。
マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。
マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。
エジプト近代化のために、そのマムルークを一挙に叩こうとしたムハンマド=アリーは、奇計を用いた。1811年、マムルークの一党500名を、アラビア半島のワッハーブ派討伐軍派遣の壮行会と銘打ってカルファと称される居城に招いた。その帰途に城下に出る隘路で伏兵に狙撃させ一党を掃討した。これは、今のムハンマド=アリー=モスクのある城塞で、かつての十字軍時代の英雄サラディンの城址での強襲であった。これが、「シタデルの惨劇」や「城塞の謀計」と言われるマムルークの殲滅である。
さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。
さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。
イブラーヒーム
19世紀初頭、オスマン帝国の領土内ではアラビア半島のワッハーブ派の蜂起と、バルカン半島におけるギリシア人・セルビア人の民族独立運動が始まっており、ムハンマド=アリーは当初はオスマン帝国に協力してこれらを抑える上で大きな力を発揮した。
1818年 アラビア半島に進出、ワッハーブ王国(第一次)を滅ぼした。実際にはムハンマド=アリーの長男イブラーヒームが率いるエジプト軍が、近代的な装備によって、ワッハーブ王国の土豪軍を破った。
オスマン帝国の要請により参戦したギリシア独立戦争は1829年に終わった。「帆船時代最後の大海戦」と目されるナヴァリノの海戦で、エジプトとオスマン帝国の連合艦隊は英仏露3国の艦隊に敗北した。そこでは4分の3の艦隊を失い、6000人の「トルコ人」が戦死している。
しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。
しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。
ムハンマド=アリーは、最終的にオスマン帝国との戦争に踏み切った。オスマン帝国に対してギリシア独立戦争の際の出兵の代償としてシリアの行政権を要求し、それが拒否されたことから、1831年、長男イブラーヒームをシリア・アナトリアに進撃させた。こうして、第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。
ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、
ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、
第2次エジプト=トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド=アリー
1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、今度はムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れた。1840年にロンドン会議が開催され、翌1841年、エジプトはシリアからは撤退する代わりに、ムハンマド=アリーはオスマン帝国からエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められ、ここに正式にムハンマド=アリー朝が成立した。
ムハンマド=アリー=モスク
ムハンマド=アリーはその後、一時精神を犯された時期もあったが引き続き政務を執った。しかし、1847年頃から老衰の兆しが見られるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム=パシャに譲った。
しかし、イブラーヒーム=パシャは同年11月20日に結核により死去。その跡を継いだのは次男アフマド=トゥーソンの子アッバース=パシャであった。実孫アッバース=パシャに対するムハンマド=アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム=パシャの死を知ったムハンマド=アリーは、「これで、我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース=パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。
ムハンマド=アリーは1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。享年80歳。
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