FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー1857年インド独立戦争・シパーシーの反乱

ダウンロード (1) 
シパーヒー 

 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。シパーヒーにはヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も含まれており、ヒンドゥー教徒のシパーヒーには上級カーストの者が少なくなかった。

 1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。

 この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。


ダウンロード (2)
 メーラトで起きたシパーヒーの反乱

 1857年5月10日、デリーの北東約60キロにあるメーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。

ダウロード  
エンフィールド銃

 反乱の原因としては多くの事項が列挙されている。直接契機としてあげられているのは、彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の薬包に塗った油の問題である。

ダウンロード (3)

 この薬包には湿気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填することになっていた。それはヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、イスラーム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことであった。シパーヒーの中にはヒンドゥー教徒もムスリムもいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのであった。

 そのほか当時のミャンマーで戦争を行っていたイギリスはシパーヒーをこれに派兵しようとしたが、ヒンドゥー教徒にあっては海を渡って海外に行くことは自己の所属カーストから離れなければならないという重大問題であったことも一因としてあげられている。


ダウンロード (4) 
 チャパティ

 この反乱が始まる少し前の1857年2月の早朝、デリー県インドラプートの村番が1枚のチャパティ(未精製の小麦粉で焼いたパン)を持ってパハルガンジの警察署長を訪ねて来た。そうしてこう言って去って行った。

 「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」

 署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚した。

 チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。

 イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止した。

ダウンロード 
インド大反乱

 するとまもなく 、インド大反乱が勃発。

 反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していった。「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいたのである。

 またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの戦いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。

ダウンロード (5) 
バハードゥル=シャー2世

 シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。

ダウンロード (6) 
ラクシュミー=バーイー

  また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。

ダウンロード (7) 
インド総督カニング

 イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。

ダウンロード (8) 
捕らえられたバハードゥル=シャー2世
 
反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立もあってまとまらず、デリーが陥落。

 反乱は鎮圧され、皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてミャンマーに流刑になった。これによって、ムガル帝国の滅亡は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続いたが、1859年1月に鎮圧される。


ダウンロード (9) 
反乱軍兵士を砲に縛り、弾丸を発射

 反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、 反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して身体を四散させるとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。

 アラーハーバード近郊の街路に沿って、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、……。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。

 これらの蛮行は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
 
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/19 05:08 】

海外旅行  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争① | ホーム | 世界史のミラクルワールドー近代のファラオ・ムハンマド=アリー >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |